井上さんの記事を少し補足しておきます。「教育に外部効果がある」というのは古い話で、前にも紹介したハーバード大学のPritchettなどの行なった世界銀行の調査では、教育にはマイナスの外部効果があるという結果が出ています。図のように各国を比較すると、教育投資(縦軸)と成長率(横軸)にはまったく相関がありません。教育(特に大学教育)は生産人口を浪費して、成長率を下げている可能性があるのです。
教育が成長率に貢献しないということは、社会的には浪費であることを意味します。読み書きなどの基礎的な教育は重要ですが、労働生産性に貢献するのは中学ぐらいまでの教育で、大学教育は無意味(あるいは社会的にはマイナス)だというのが、多くの経済学の実証研究の結果です。
これは教育投資が無駄だということではありません。それどころか教育投資の私的な収益率は高いのです。日本でも大卒の生涯賃金は約2億8000万円で、高卒より5000万円ぐらい高い。この差は有名大学ほど大きく、東大卒の生涯賃金は4億6000万円と、高卒の2倍です。大学の学費が1000万円以下なら、これより収益率の高い投資はほとんどありません。
しかしこの差のほとんどは人的資本の価値ではなく、学歴によるシグナリングの効果です。Pritchettは、大学教育を(非生産的だがもうかる)海賊にたとえています。現在の日本のように高等教育が過剰になっている状態で、国立大学や私学助成に公費を支出することは正当化できません。
大学教育への投資リターンは高いので、「大学無償化」は豊かな家庭への所得逆分配になります。奨学金のような貸し付けで十分です。欧米では大卒の収益率が下がり、修士でないといい職につけなくなっていますが、これはシグナリング効果を求めて学歴が過剰になるバブルの一種で、日本が「大学院重点化」で追随すべきではない。
世界的にも高等教育の見直しが行なわれており、イギリスのキャメロン首相は教育への政府支出を大幅に削減する方針を打ち出しました。公的支出は、効果の高い幼児教育や、労働者の再訓練のための専門学校や専門職大学院などに限定すべきです。
研究機関としての大学は必要ですが、これは基本的には学問を目的とする娯楽の一種で、生産性とは関係ありません。公的助成がなくなれば大学バブルは崩壊し、現在の1割ぐらいの(適正な)規模に縮小するでしょう。
コメント
仰ることは分かりますが、大学生のレベルの低さには私見ですが想像を絶するものがあるので、高校生までの教育をそのままにして大学を縮小すると変なことになりませんか。
実際の話、今の高校卒のレベルを今の大学卒のレベルに引き上げるべきではないかと思います。 特に、自立して考える能力は今の高校生、大学生ともに0に近い。
これでは生きていけないと感じるレベルなのでは。
また経済成長に貢献しないから無意味というのはいただけません。 特に、大学での研究を、学問を目的とする娯楽と言ってしまっていいのでしょうか。 直接役に立つことだけ意味があるわけではなく、相対性理論にしろ、発見当時は応用がなかったわけで、人類の進歩は経済性の追及からは生まれませんよ。
私は文系学部と理系学部の両方に在学したことがあるので、経験的に言わせてもらうと、「文系学部」の存在意義がよくわかりません。
理系学部はかなりまともに機能しており、文系学部の無意味さはたぶん構造的なものだと思う。
文学部とか社会学部とか哲学とか・・・意味あるの?
外国語学部・・・実学だが専門学校で十分
経営学部・・・教授の意見を拝聴するだけで実学ではない。引退した経営者が教授ならまだわかるが。
法学部・・・一見実学のようだが、実際には実社会には全く役立たない事を教えている。
会計学・・・一番役に立つが、別に大学でなくても良い
経済学部・・・高等数学を使うので理系のほうがいいのではないかとおもう。
私は大学は理系だけにしてそれ以外は、専門学校にしたほうがいいんじゃないかという意見です。(反対が強ければ教養学部に一元化する)
アメリカは奨学金は理系学部以外にはほとんどでないそうです。
が、やはり日本では政治的には難しそうですけど、
私が文系の学部にいたときは、「それを勉強するのに意味あるんかい?」という疑問が続出でした。
>今の高校卒のレベルを今の大学卒のレベルに引き上げるべきではないか
高等学校卒業程度認定試験を全高校に義務付ければいいのじゃないでしょうか。ほとんどコストはかからない。
>自立して考える能力は今の高校生、大学生ともに0に近い。
「自分で研究をデザインして実行する能力」と解釈するなら、大学院博士課程を出ても難しいと言わざるをえません。学校教育では、いくらコストをかけてもできないことがあります。
>相対性理論にしろ、発見当時は応用がなかったわけで
二次方程式の解き方から教えているような大学からは、絶対に相対論クラスの成果は出ないと思います。
私は大学教育は必要というか、娯楽としての学問としては貴重である、と思っていますけど。サンデルの講義みたいなもの、あるいは古典でもなんでも、興味をひく面白い授業を教員が試みて、そういう知的好奇心を対象にしていればいいと思います。基本的にはライフワークを身につける場でもあると思いますので。思想とか哲学なんてものは、一生ものですし、自分が社会に出て、とても間接的な形ではありますけど、一体なにを成そうとするのか?とか、そういうことを冷静に考えさせる場であってもらいたいですよね。
しかし上記のような考え方からすると、やはり日本の大学教育は終わっていると思えますね。(一方で対照的な生涯学習という視点からの大学教育もありますが、こちらのほうが本質的なのではないかと思います。)高卒で大学に入って、モラトリアムを悶々とすごしているよりも、なんでもいいから就職して働きながら勉強するという形の方が、より健全なのではないかと思いますね。一旦会社に勤めだしたら、勉強なんてしていられないとか、たしかに数年間くらいはそうやって鍛えられる期間はあってもいいと思います。しかし一昔前の企業戦士のようなああいう生き方はもう流行りませんからね。欧米の、サバティカルでしたか?ああいう感じで数年置きに時間をもらって好きなことしたりと、そういう生き方には憧れますけどね。それに、大学が就職の為だけのものであるとしたら、近年の生涯学習の隆盛はなんと説明づけるんでしょうか?
私は、アゴラは上記のような多様な教育のあり方を実践されていると思って見ています。
学校教育が有用か、有益かという議論は学歴コンプレックスを背景にいつも世の中に俗説的に存在してきたと思います。高等教育は本当に無駄なんでしょうか。
1割程度に自然に削減される、というのは先生の釣り文句で置いておくとして、理系の学部の研究結果はやはりそれなりのイノベーションに役に立っているはずです。ただし商用化がまだまだ遅れています。名古屋大学なんかはかなり頑張っているみたいですね。
自分自身は医学部を出ていて、まさに医学は実学ですので無駄だったとは全く思いません。逆に自力で体系だった膨大な勉強をするのは殆ど不可能で非効率です。モグリの名医は物語にしか存在しません。
中学までの学問は社会で使えるというのは良いとして、高校はどうでしょうか?自分自身の経験ではある時突然フレミングの法則だとか、モル計算だとか、対数計算を必要とされる場面があります。医師でも簡単なことしかしない人も居るのでみんなだとは思いませんが。
医師以外の職種の人もきっと専門性がある程度問われる業種の人はみんな同じ経験があるのではないでしょうか。もし高校時代に自分が数学だけ、物理だけ、化学だけ・・・と狭めて勉強していては知識が社会人になって間に合わず、逆に教育カリキュラムが自分に平均的な能力を与えてくれたことに凄いと感心します。
要点は、営利業者による大学経営と、国、公立校の厳格な差別化を図ることです。
方法は、簡単です。入学試験を厳格化するのです。小論文だの、一芸だのと言うなまくらな試験は先ず廃止すべきです。
その上で、一切の妥協も緩和も無しに、5教科試験を実施して、単純に、上位者から合格させるだけで良いのです。
合格者が多ければ、問題の難易度を上げるだけで良いのです。
私立大学と、公立大学卒の認定資格をランク付けするなどの方策も良いかもしれません。
とにかく、入学選抜を厳しくすることの一点に尽きます。
>教育の私的な収益率が高い
私的収益率が高い原因も、人的資本形成ではなくて、シグナリングであるという実証研究が出てます。
ところが、これだけ大学が増えてしまうと、シグナリングにすらならないので、私的収益率はガタ落ちで、4年間の機会費用を考慮すると収益率はマイナスになっている可能性もある。
工学部などはまた別かとは思いますが…。
現行、大学入学時点で受験競争が起こり、世代の約半数がこの競争に参加しています。もし中学校の勉強を理解していることが、高校受験の勉強ができることの必要条件だと大雑把に仮定した場合、現在の学歴のシステムは人口の一定割合(高学歴層)に対しては高卒レベルの教養の保証と、優秀な中卒者(中卒レベルの勉強を理解している人)を大量に輩出するという社会的な効果があるとは考えられないでしょうか。そしてこれは、公費によってある程度安価に供給された高等教育(高校も)によるところがあるのではないでしょうか。
もうひとつは、よく言われることとして、大学は、「勉強の仕方を」、学ぶところであるという考え方もあります。どのような分野でも、将来的に高度な専門知識を身につけるには、ベースとして学部1,2年で習うような教養(解析学,統計学,…etc.)が必要になるものと思います。そのような教養を身につけた人が、世代の一定割合で輩出される事は長期的に社会の利益になるのではないかと思います。
思いつきですが、例えば1,2年の教養課程を修了した時点で短大卒レベルの学位と、新卒採用スキームへの参加権とともに退学する権利を与えるとなどというのはどうでしょうか?実際、文系では3,4年になるとろくに学校に来ずに卒業していく人もいるようですから。学問を修めたい人だけ、上へ行けばいいのではないでしょうか。
文系学部は全般にレベルが低い(司法試験などの受験者は別)ので問題外として、理系学部も、学生の落差は激しいと思います。教養課程で、勉強しなくなり、就職が無ければ大学院へ進む学生が多いように感じます。
また、機械図面を書いたことのない機械専攻,ハンダごてを握ったことのない電気専攻,まともなソフトの一本も書いたことの無いソフト専攻など多く、大学在籍中の成績ではほとんど判定は不可能です。よって、企業に入社してから一から教育となる理由ですが、最近ではそのような余裕もなくなってきています。
個人的には、理系専門職では以下のようなコースがお勧めです。
高専卒業→大学専門課程に編入→海外の大学院へ入学
普通の人間は高卒で充分ですよ。
高校の勉強を消化しきれてない人がほとんでですから。
高校の勉強を8割方マスター出来てたら東大、京大を除く旧帝大も合格の射程範囲に入ってきますから。
けど現実、ほとんどの人がマスター出来てないから、英国社の3教科だけの私文に行かざるを得ない訳ですよ。
幼児教育に投資すべきという主張には賛成ですが、論拠となる世銀の調査はだいぶ粗っぽく無いでしょうか。
比較されるべきは産業全体の生産性ではなく知識集約的産業の生産性との関係でしょう。経済成長はほとんど製造業の発展によってもたらされるものであり、そこで大学教育の知識が活かされる局面は限られると考えます。一方、シリコンバレーのような継続的にイノベーションを生み出す土壌と大学教育との関連がゼロとはにわかに信じられません。
2点,感想を述べさせて頂きます。
1, 文学や歴史などが「一種の娯楽」という意見には賛成です。ただ,人間は娯楽がなければ幸せではないでしょう。物質的に豊かであることは,精神的に豊かである事よりもおそらくは重要ですが,人間が幸福になるためには両者を含めた多くのものが必要だと思います。
2, 大学教育に関しては,上記以外はほぼ同意です。ただ,しばらく前のアジアの経済成長を扱った研究などでは,しばしば「大学は教育機関というよりも,人材選別機関として機能したことが重要だった」ことが指摘されていました。その意味でも,学歴バブルは大学の存在意義を脅かしていると思います。
ですので,大学の数,入学定員の削減には賛成です。ただし,これは「大学に入りたい人を入れないようにする」ことをも意味しますから,経済合理性のみでは実現できないのではないかなと思います。
池田先生は当然判った上で、話を丸めて書かれてらっしゃるとおもうのですが・・・
「教育の外部効果は負」というのは賛否のある説です。というかそんな大くくりで乱暴な実証研究はなされていないと思います。主流説のもう少し正確な要約は「平均教育年数が過度に上がると(経済的な面での)外部効果は負に落ち込む」という言い方の方が適切かと思われます。
具体的には、コストが高く、労働力を市場から奪う形になる高等教育が問題になってくる、という結論が普通かと。
義務教育はもちろんですが、先進国化においては(海外投資含む)資本蓄積と中等教育の普及が鍵だ、という実証研究もそれなりにありますので、教育全体の外部効果を一概に負と見る(教育学からはもちろん)経済学の実証研究は無いと思われます。問題視されているのはあくまで高等教育だ、と言う事ですので、池田先生の提議された問題の前提条件としては同じ事なのですが。
> tkhwtbさん
経済学的には高等教育の効果に疑問符が付いているのは事実です。ただし、確かに21世紀型の知的集約産業においては高等教育の外部効果が高くなる、という仮説は否定されていないと思います。現状は
・教育には普及してから経済効果が出るまでに時差がある(概ね10年)
・知的集約産業の就労人口比率が少なく、高等教育人口を大幅に下回るのが常
という問題があるため、時期的にまだ調査結果が出ない/マクロの教育・経済統計では測定困難、という点から結論がまだはっきりしていない、という段階だと思っています。(専門では無いので私が寡聞なだけかもしれませんが・・・)
大学教育と一国の経済成長率との間に相関関係があるかないかという問題は,実はどうでもよい問題である.
なぜなら諸個人は,国の発展に寄与する道具として存在しているわけではないからである.つまり,偉大なる指導者や専門化が,その選択は,国の発展やあなた自身の経済的合理性にとって有用ではないと指摘したところで,それは大きなお世話であり,諸個人の自由な目的選択に対して中立的であれという自由主義社会の大前提に反することになるからである.
上記,池田氏の記事も助成金を廃止すべきという意味において読む限りにおいては何の問題もない.政府は諸個人の知識獲得の選好や教育のあり方について無関心かつ中立的でなければならないし,国の金は非排除性のある公共財の提供以外に使用することは許されないからである.実際,上記記事を最初に読んだとき私はそのように読んだ.
しかし,その後の展開は私の予想通り反自由主義,国家型全体主義思想に彩られて進んでいる.まことに残念なことだ.
>Shinさん
コメントありがとうございます。
成長に相関の強い製造業に従事するワーカーには高等教育は過剰であり公的補助も不要という論旨には賛同いたします。また、上掲の通り幼児教育の重要性も同意します。
一方で、日本では製造業の現場で創発が生み出される度合が高いとみなされたり(※)、知識集約型産業への転換が国是(※)であるとみなされたりした場合に、公的補助が正当化されるのではないかと思います。
したがって、このエントリーがそういった反論を打ち消してより影響力を持つためには、知識集約型産業が別扱いである旨か、知識集約型産業でも正の経済効果が無いという実証がある旨を明示すべきと考えます。
(※箇所ですが、事実かどうかはわかりませんし、具体的に何を指すのかも曖昧かと思いますが、一般的にそういった論調があるという意味で述べています)
>tkhwtbさん
>このエントリーが(SNIP)、知識集約型産業が別扱いである旨か、知識集約型産業でも正の経済効果が無いという実証がある旨を明示すべきと考えます。
仰るとおりかと。繰り返しになりますが、経済学の実証研究が示しているのは、
『(ある社会集団を全体で見た場合に)平均教育年数が過度に上がると(経済的な面での)教育投資の効果は(外部効果を含めても)負に落ち込む』
ということでしかありません。実証研究が問題にしているのは、あくまで「平均教育年数」のような「全体」についての話であって、「知識集約型産業のような特定産業に対する高等教育の正の外部効果」までは否定していません。(まして「高等教育そのものの(非経済面での)価値」を否定するものではありません。)
ただ、その前提であっても、経済合理性の面からすると池田先生の結論が概ね肯定できるのは「知識集約産業は別」と捉えた場合にも、現状の日本の大学進学率がバブルと言えそうだからです。
例え「知識集約型産業への転換が国是」であったとして、さらに(実証されていませんが)「知識集約型産業の発展には高等教育の基盤が必要」な場合であっても、現状の日本の現状の高等教育への進学率は、「知識集約産業に携わる労働人口が5割に迫るような社会」を目指すような場合でしか肯定されえないと思います。
本エントリーには
・知識集約型産業が別扱いであるか、知識集約型産業でも高等教育に正の経済効果が無い、という点を明記していない
・そもそも実証研究が示しているのは「社会全体での高等教育の外部効果」の話であるのに「教育一般の外部効果」の話に丸めてしまっている
という2つの(恐らく池田先生は御承知でやられている)「端折り」が、ある事には同意いたしますが、その点を考慮しても「日本の現状の大学進学率は経済上は不合理である」という結論は結局揺らがないのでは無いでしょうか。
非医学系の理系研究現場に関わる人間の感覚としては
現状の研究水準を維持する為には、多くの学生が必要です。
文系のゼミや卒論の世界の方には判りにくいかも知れないので敢えて言い切ってしまえば
戦争には大量の兵卒が必要ということです。
最先端の研究でも様々な『下準備』や設備の維持管理が必要になりますし。アイディアが湯水のごとく沸くような超一流研究者でも自分の体は一揃いしかありません。
物質対象の研究では図上演習ではなく実戦が必須ですので
手足として動く相当数の人員が必要となります。
本来であれば専門家である正規兵(ポスドク)や傭兵(テクニシャン)を大量雇用できれば理想的ですが予算の確保が大変で、即実用の企業研究でもない限り無理でしょう。
そこで持参金(学費)付きで参加してくれる義勇兵(学生)が重宝するわけです。
こういったやり方は
教育としても現場で必要な最低限は実戦で叩き込まれますので、企業からの受けも悪くないのではないかと周辺を見る限りでは思えます。全く就職の決まらない学生なんて10%に満たないですからね。
文系学部(&文系の学問)不要論が大勢のようですね。
理系の方が多いようなので、素朴な疑問を伺いたいのですが、文系の学者の能力が2流3流であるために、文系の学問は2流3流なのでしょうか(多くの場合、数学ができないやつがやっている)。
それとも、誰がやったって(たとえば理系の学者として世界的な業績を残せるポテンシャルのある人でも)、文系の学問が扱っている問題に対しては、理系の学問が扱っている問題ほどには、明確な答えを出すことが出来ないから、文系の学問は「役に立たない」のでしょうか。まぁどっちも当てはまるのかもしれませんが。
ちなみにアメリカの学部教育が理系にしか奨学金を出さないというのは大きな間違いでしょう(研究費で雇われる場合はそうでしょうが)。
元理系の文学部生として、少々挑発的な質問を書かせていただきます。ここでは「文系が不要、理系だけ大学があればいい」と主張される方々が多数のようですが、その方達は次の質問にどのように答えるのか、と私は思います。
・「科学が…」というがそもそも科学とは何か?それ以外の思考(オカルト、疑似科学、呪術etc)とはどう違うのか?
・「何が科学的真実か」ということを決める上ではガリレオ裁判のように「実際に正しいか」より「社会情勢」が決定的な役割を果たしている現実がある。(最後にはガリレオが勝ったけど)この「社会と科学のパワーバランス」は?
・数学を突き詰めた結果として19世紀に現代論理学とその流れをくんだ「分析哲学」という学問が発生し、それがコンピューターの開発において重要な役割を果たしたわけであるが、このような事例を見ても「文系は不要」と言えるのか?
…この手の「教育問題」を語る上で最大の問題は「学生」と聞いてどんな人間を思い浮かべるかが人によって違うことに誰も気づいていないことでしょうと私は思います。
「文系の学問が不要」とは誰も言ってません。現在のように、何十万人もの学生を大学に集めて講義し、教育する必要はないと言っているのです。
なるほど、カントの認識論がわかる人も必要だし、ポパーの科学哲学だって必要だ。しかし、一般教養と称して、ドイツ語のアルファベットもろくに書けない「学生」にカント哲学を講義しても無駄であるし、職に困る卒業生を輩出するだけの文学部はもっと無駄だ。
現在の思想、哲学、宗教、歴史の教育手法、特に大学教育に問題があることは同意しますが、思想、哲学、宗教、歴史は重要です。近代の科学の発展は兵器開発や戦争がきっかけとなっていることはご存知かと思いますが。たとえばインターネットが軍用目的のARPANETが民生目的に普及したのは衆知のとおりです。同様に核兵器の開発が現代の原子力発電につながっています。現代でも米ソの軍拡競争が宇宙開発を促進し、宇宙兵器の開発が米中で盛んに進められています。
しかし、この科学開発を制御する思想が出てこないと、一瞬にして人類を滅亡させる武器に転化可能なものもありますので危険極まりないわけです。ミサイルを開発する技術力があっても、危険な思想に基づけば国民が餓死し周辺国を恐喝する北朝鮮のような国も存在します。このような惨状を見れば、なかには科学や文明を拒否する極端な人達も出てくるわけです。そもそも「科学は人類に奉仕するのか」、「科学と人類の幸福は両立するのか」、という根源的なところから考えて、現代科学技術の効果的な運用につなげる学問・思想が必要なんです。
うーん、コメントへの意見と本文への意見と本文が話題にしている現象への意見がごちゃごちゃになってしまったので変なことを書いてしまいました。
>agora_inoueさん
意見はわかりました。「現在の大学制度」が役に立たない面がある、というのも同意します。
しかし、現在の大学制度と大学に学生が流れ込むという現実を変えるためにはどうしたらいいのでしょうか?
とにかく政治主導で予算を削って大学をつぶせとおっしゃいますか?
私見ですが、アゴラにおける大学論には「今の大学は行くだけ無駄だ」という考えを提示している方はたくさんいても「なんで行くだけ無駄な大学に大量の学生が入るという現象が起きるようになったのか」という点への考察がありませんね。この点から考え始めれば、18歳の青年に「無駄な大学へ行くよりは…」と思える社会をつくるための方策を生み出すきっかけになると思いますよ。
>現在の大学制度と大学に学生が流れ込むという現実を変えるためには
それは、池田氏や私が投稿本文に書いてあるように、大学助成金を廃止して、学費を高くすればいいのです。それでも必要(回収可能)だと思う人は、教育ローンを借りるでしょう。
議論,横から失礼致します。
何かについて問題があることが分かり,それを改革しようとするとき,最初に必要なのは「それを何にするのか」ということだと思います。ここで展開されている議論で言えば,要するに「大学を何にするのか」ということです。
大学を人材養成機関の一つと考えるのであれば,高等教育が必要とされる規模に定員を減らし,かつあまり経済的に役に立たない文系学部も縮小されるべきでしょう。対人交渉力や会計,語学,あるいはインターン,起業など実務上役に立つものを教えるべきです。
大学を人材のラベリング機関とするならば,入試制度を統一し,なるべく多くの高校卒業者に受けさせ,4年遊ばせるよりは在学期間を1年にしても良いかも知れません。
大学を教育機関とするならば,学びたいものには広く門戸が開かれるべきです。入試の成績によって入れる大学の選択肢は変わるかも知れませんが,基本的には全入であるべきでしょう。教育内容も,歴史,哲学,文学始め人間の知的な営みについて幅広く教えるべきです。
大学を研究機関とするならば,規模は研究に必要なレベルまで縮小し,研究対象とする分野も吟味されるべきでしょう。学部学生は,基本的には研究者志望でない限り受け入れる必要はありません。
現在の日本の大学の抱える問題は,以上のような役割が中途半端にごちゃまぜになっているせいかと思います。いくつかの役割は共存可能でしょうが,全く排他のものもあります。現代の大学に求められている役割を切り分け,別の制度で実現していくことが必要でしょう。
まずは我々の社会に何が必要なのかはっきりさせ,そのために制度設計を考えることが生産的な議論の第一歩かと思います。