最近、京都大学のカンニング問題に関連して、「そもそも入試制度が時代錯誤だからいけない」というような意見を頻繁に耳にする。 確かに今の入試制度にはいくつかの問題点があるが、良い点もある。 そしてこの良い点があまり理解されていないように思われる。
現在の、試験の点数一辺倒、本番一発勝負の入試の持つ良い点は、二つの側面で比較的公平であることである。一つは家庭の経済力に対する公平であり、もう一つは社会的評価に対する公平である。
まず一つ目の、家庭の経済力に対する公平から説明したい。今の日本の入試では、AOや推薦もあるが主流は依然ペーパーテスト一発勝負である。受験料さえ払えば、テストの成績が良かった奴が合格する。そしてそのテストは基本的に学校で教える内容に基づいて出題されており、学校の勉強ができれば良い点をとることができる。家が貧乏でお金をかけた教育ができなくても、多くの公立のトップ進学校では予備校顔負けの受験対策を行っており、学校の勉強だけしていれば難関大学へ進学することが可能である。
今の制度であれば、貧乏な家に生まれても、必死で勉強してトップ進学校に入り、そこでまた必死に勉強することで難関大学へ入ることが可能である。入試はある種の「機会の平等確保装置」として作動している面がある。これを、例えばツイッターでしばしば聞く「パソコン、ケータイ何でも持ち込み可の入試」にするとどうなるか?貧乏な家の子供は勝ち目がなくなってしまう。
現状、子供のIT機器活用スキルは家庭の経済力の影響を顕著に受けている。IT機器を使いこなすスキルに長けている者とは、当然ながら、自分専用のPCを持っている者である。今の日本で自分専用のPCを買ってもらっている高校生というのは相当裕福な部類だろう。家族共用のPCしかない高校生は多く、そもそも家にPCがない高校生も相当数存在している。今の日本ではほとんどの学校にPC室があるとは言え、PC室のPCを自由に気軽に触れない学校がほとんどであり、学校でPCの使い方を十分に教育してくれる訳でもない。家にPCがあり最低限PCの使い方のわかる人が居ないと、大学入学まで完全なPC音痴で来てしまうのが今の日本の現状である。IT機器を駆使して回答するような試験は、確かにこれからの時代には合っているのかもしれないが、学校では教えてくれないことを課す試験というのは低所得層の子供に一方的に不利である。
次に、社会的評価に対する公平である。今の入試制度では、本番の点数さえよければ、それまで3年間素行が不良でも、ろくに勉強していなくっても、先生の評価が悪くても、難関大学に入ることができる。これを例えば、よく言われる「高校の成績やボランティア活動の実績などを多面的に評価する」入試にしてしまうと、素行不良の受験生は見込みが無くなってしまう。
確かにアメリカなど海外ではすでにそのような入試をやっているが、アメリカと日本では環境が違いすぎる。アメリカでは多彩な才能を評価するということが風土として根付いているが、日本では先生や親、社会の評価は一面的である。また、アメリカでは優秀な生徒は飛び級で先に進むことができるが、日本では他の生徒のペースに合わせることを強制されるので、優秀すぎる「浮きこぼれ」が素行不良になりやすい。さらに、日本では尖った才能を持つ子供が才能を発揮して活躍できる環境が整っているとは言い難い。結果として、「多面的な評価」をしようとしてもコツコツ型の才能ばかりが目立つだろう。
今の日本の学校では、クリエイティブな尖った才能の生徒は評価されない。こうした状況のまま、「多面的な評価」でクリエイティブな才能を拾おうとしても、結果的にはそうした才能を隠し持った素行不良の人材を排除することになってしまう。今の入試制度は、頭が良ければ高校での評価に関わらず誰でも難関大学に入れる。恵まれた才能故に日本の学校教育に不適応を起こしている高校生にも道が開かれていることで、結果的に尖った才能もある程度拾い上げられている。
このように、今の入試制度はいくつかの問題点を抱えているとは言え、「頭の良い奴が勝つ」というシンプルさ故に貧乏人にも変人にも公平な制度となっている。貧乏であることも変人であることも、日本では実に人生の質を損なう要因であるが、頭が良ければ大学入試を通じてこうした不利を逆転することができる。日本には他にあまり逆転の機会が用意されていないだけに、入試が持つ「逆転の機会」の役割は重要である。入試制度改革を考える際には、入試が持つこうした公平性が損なわれないよう最新の注意が必要である。
(東郷航平 大学生/筑波大学3年)
コメント
ならば、入試を無くしてしまえば良いのに…。
そもそも入試制度が時代錯誤、という意見には賛同できません。
大学入試問題というのは、あくまで大学に良い学生を選抜したいという思いで作られています。 時代錯誤といわれる人たちは、恐らく、大学入試で必要な学力は社会では役に立たないから、ITスキルの方が大事だ、といった考えなのではないかと推察します。 しかし、それは決定的に誤りです。 英語、現代国語のような実用的なものはもちろん、数学や物理のような科目も、それ自身を社会で使うということもありますが、実際には、論理的に考えられるか、計算力は確実か、といった学生の資質を見るのに使っているのです。
つまり、公平な土俵で学生の資質を見たいという思いで問題は作られているわけです。 これはスポーツ選手を選抜するのに、100m走のタイムや、反復横とびの回数の測定といったことを行うのと全く同じことです。 そのこと自身は社会で役に立つことでなくても、資質を判断するには一番公平な尺度として入試問題があると考えたら如何でしょうか。
>必死で勉強してトップ進学校に入り、そこでまた必死に勉強することで難関大学へ入ることが可能である。入試はある種の「機会の平等確保装置」として作動している面がある。
「必死で勉強」できる子供は所得の高い家庭に多いという事実を鑑みると、必ずしも公平だとは言えないと思います。
少なくとも親の所得にかかわらず、衣食住の整った環境を享受できるという状態が子供全員に対して実現されない限り、真に「公平」な社会とはいえないでしょう。
貧乏であることは、逆転の機会を著しく低下させるということも考える必要があります。
大学入試において、平等性・公平性を出来得る限りに担保しようという意見には賛成します。
ただ、その一方で、日本のおかれているビジネス環境は平等でもなければ公平でもないものです。
そういうことを踏まえた上で、大学が育てたい資質、育てたい人材といったものが、どの方向に向いて考えられていくべきか、これは考慮してみる価値があると思います。
本来、入試とは大学が世に問いたい価値観を表明する場でもあるわけです。
これは企業の採用においても同じで、より具体的に実践されています。
(大学の場合は、現状は対象が主に高校生であるため、基本的学習能力の質に着目しがちになってしまうのは致し方がない面もあります。大学の立ち位置によるお話です。)
どのような平等性・公平性を、何を目的に維持していくのか、そして、それ自身に意味はあるのかといった問いが先立ってあってもよいのかなと個人的には思います。
つまるところ、国の意志として大学の平等性・公平性を担保したとして、それに何か意味があるのか?もしくは今後において意味があるのか?ということを問うのは意味があるのかなと思います。
上記を踏まえると、大学の入試が大学の自治の問題として執り行われるべきという意見があり、そしてその自治のあり方が形骸化していないかという意見があることも理解できると思います。