原子力が化石燃料より(死亡率でみる限り)安全だというのは、WHOもOECDも指摘する世界の常識だが、今それをいうことがpolitically incorrectであることは確かだ。それは9・11の直後に「飛行機は自動車より安全だ」というようなもので、いくら正しくても人々はそれを感情的に受け入れない。
このようなバイアスが生じる原因は、原発ではエネルギーの発生源で被害が出るのに対して、化石燃料では採掘事故や大気汚染など、離れた場所で被害が出るからだ。汚染者と被害者を分離することは人々のバイアスを利用して社会的コストを小さく見せる方便で、汚染者が被害者に賄賂を払えば、パレート効率的になりうる。これをコースの定理と呼ぶ。温室効果ガスの排出権取引の考え方である。
実は原発の場合も、本源的な汚染者はエネルギーを消費する都市なので、汚染者と被害者が分離されており、汚染者が電源交付金という形で発電所の地元に賄賂を払っている。つまり電力会社は、地元から公害の排出権を買っていると考えることができる。都市は賄賂によってエネルギーを入手し、地元は公共投資で互いに利益を得ているので、この取引はパレート効率的である。
これは高度成長期に田中角栄が編み出した都市から地方への所得再分配のテクニックの一つだが、今こうした政治手法が限界に来ていることも否めない。特に賄賂が文字どおり政治家への贈賄になって利権化したことが、地方の荒廃とエネルギー政策への不信感をまねいた。かといって都市に発電所を立地することは困難だし、コースの定理からみても非効率である。
だから今後は、発電所や米軍基地などの迷惑施設を建てるとき、公害のオークションをやってはどうだろうか。たとえば東電が発電所を建てるとき、全国の市町村に呼びかけて電源交付金のオークションを行ない、最低価格を出した自治体に落札するのだ。理論的には、際限なく交付金の額を上げれば、どこかで買い手がつく。落札額が過大になったときは、政府が補填すればよい。
これは結果的には、今の電源交付金と同じ地方への再分配だが、政治家が介在しない分だけ透明で、長期にわたる地元との交渉も必要ない。これは周波数オークションと同じなので、利権を失う政治家や官僚はいやがるだろうが、政治力のない民主党にとってはいいかもしれない。
この手法は、放射性廃棄物にも応用できる。河野太郎氏も指摘するように日本の核燃料サイクルは破綻しており、国内では再処理施設や高速増殖炉はあきらめたほうがいいだろう。だから途上国に開発援助で再処理施設をつくり、日本の放射性廃棄物を有償で処理すればいいのだ。これは有害な廃棄物の不法投棄を禁じたバーゼル条約違反になるおそれがあるので注意が必要だが、当事国の政府が合意すれば廃棄物を海外で処理することは可能である。
これは京都議定書で定められた国際的な排出権取引と同じ考え方である。排出権の計測には不確実性が大きいので、それを国際的に取引するのは非効率的だが、放射性廃棄物は取引の対象が明確なので、CO2よりはるかに取引は容易だ。こういう公害の輸出には環境団体が反対するだろうが、途上国でもっとも多くの人命を奪っているのは、汚染ではなく貧困だ。公害の輸出で途上国が豊かになれば、パレート効率的な結果をもたらすことができる、というのがコースの定理の教えるところである。
コメント
考え方は、賛同。池田氏が主張する、公開・競争の論理で一貫している。新しい視点で教えられる。
現実には、不可能。地方からの視点が、あまりにも類型的。今、原発存続にこだわっている地方の声は、今までの利権を保持したい勢力。何となく付き合っていた「それほど特も損もない人たち」は、自分たちが騙されていたことに気づいてしまった。
それに、地方オークションで落札するためには、周辺50km圏内の賛同が必要になった。大型公共工事並みの、連合体を組む必要がある。北海道でさえ、10自治体くらいがからむ。道外なら、県単位の賛同が必要。これが致命的。残念ながら、日本は狭すぎる。
賛成です。理由は3っつあります。先ず第一は全体最適の考え、手法が行き詰っており今回の福島原発事故でトドメを刺されたと思います。これに代る手法を考える事は喫緊の課題です。第二は公害、迷惑の伴う公共施設(発電所、米軍基地、ゴミ処理場、産廃施設、精神病院、刑務所等)建設は不必要な規制とともに近隣住民対策が必要で結果利権、腐敗の温床となっている様です。速やかな是正が必要です。最後はご指摘の周波数オークション含め今後の日本は市場で管理可能なものは全て官僚の恣意的管理から透明性の担保された市場に移す事で世界から理解、評価を得るべきとと言うものです。
山口 巌
数字に裏づけされたデータを信じる、というのはもっともな考え方だと思います、ただ、数字を信じるだけではなく、数字に裏づけされない情報を疑い、なおかつ、数字もその数字が妥当かどうか?を疑う、その数字が示された背景や素性も考慮する、という視点や、この数字からこのようなことが言える、という見解についてもそれが妥当かどうか?を疑う、という視点も重要だと思います。(例えば、資料から言えることはあくまでも「死者数は化石燃料よりも原子力のほうが少ない」ということであって、「原子力のほうが化石燃料よりもクリーンなエネルギー」とは書かれていません、あくまでもクリーンうんぬんに関しての主張は「数字から導き出される結論に関しての一意見」です)
数字の信頼性については、1つの数字ではなく様々な意見、立場の複数の別々の背景、素性の数字を比較検討してみてはじめて「その数字の信頼性が高まった」と言えます「その数字からどのようなことが言えるのか?」についても同様に複数の様々な意見、立場の人達の見解を比較検討してみてはじめて「その数字からこのようなことが言える」という見解の信頼性が高まった、と言えます。
今回の一連の「数字を示した記事」は「その数字からどのようなことが言えるのか?」という点について少々疑問に思います。
信頼性の高い数字データをもとに数字から導き出される結論に関しての見解を挙げ、それについて推進、反対、中立、様々な立場の人達と議論しあって、その見解についての信頼性を高める、というプロセスが必要だと思います。
リスクが極度に偏在する事象について、金で問題を解決する(というよりは問題を地下に潜らせる)手法は別に目新しい話ではない。その枠内での話だね。
現状では仕様がないとは言うかもしれない。
けれどもネット上で「金を貰った福島県民自己責任(笑)」などという言葉が散見される現状を見て、うれしそうに「賛成です」などと言う気にはなれないね。
基本的にはいいような気もするけど、落札額が過大になったときには政府が補填する、じゃなくて、原発を作ることができない、じゃないと可笑しいんじゃないかい? 結局政府の力で作れるなら今と一緒なのでは?
あと買い手がつく、じゃなくて売り手もしくは引き取り手のような気がしないでもないが、これは日本語の話なのでここではどうでもいいか。意味は分かるし。価値の無いものをお金と共にあげる場合は何て云うんでしょうね。