国家という世俗的な宗教 - 『近代 想像された社会の系譜』

近代 想像された社会の系譜近代 想像された社会の系譜
著者:チャールズ・テイラー
販売元:岩波書店
★★★★☆


このごろ本屋に「サンデル・コーナー」ができ、サンデル先生は震災にまでコメントしているが、率直にいって彼はオリジナルな思想家とはいえないし、日本で出ている本のほとんどは凡庸な説教だ。それよりも彼の師匠の書いた本書を読んだほうがいい。これは大著『自我の源泉』の続編で、次の大著、“A Secular Age”の導入ともいえる。

そのポイントは、近代社会がキリスト教の世俗化によって生まれたということである。マルクスから現代の経済学に至る「唯物論」的な社会観では、人間を欲望をもつ合理的個人と考え、その経済的利害にもとづいて「上部構造」たる文化や法制度ができると考えるが、著者はこれを逆転して、西洋的な社会の根底にあるのは社会的想像(social imaginary)だとする。

これはアンダーソンの『想像の共同体』に似た概念だが、起源はもっと古い。世界の宗教や習俗の多くは、特定のコミュニティに依存した呪術で成り立っているが、キリスト教や仏教のような「高次の宗教」は、人々を地域から脱埋め込み化(disembedding)し、世俗的な欲望を超えた精神的価値をよりどころにする。このように俗世間を拒否する態度によって、ローカルな部族を超えた統一的な価値が共有されるようになったのだ。

15世紀以降、欧州では都市化によって異なる言語や文化の人々が交わり、内戦や紛争が日常化した。こういう「大きな社会」で平和を実現するために重要なのは、一方では武力による統治だが、他方ではそれを支える共通の価値観である。それが可能になったのは、西洋文化圏でキリスト教が広く共有されていたからだ。それを世俗化したのが、西洋的な道徳である。

近代国家は、このような世俗的道徳の制度化だが、その構造はキリスト教と同じである。人民主権というのはフィクションにすぎず、国家を支えているのは投票による民主主義ではない。個人や地域を超えた法秩序に対して人々が従属する正統性が、近代国家を支えているのだ。ビンラディンを暗殺したことを宣言するオバマ大統領に対する賞賛は、ある種の宗教的な情熱である。

他方、日本の政治がいつまでたっても混乱しているのは、このような世俗的な宗教が(よくも悪くも)弱いことに求められよう。日本は長い平和の中で地域共同体が融合し均質化したため、脱埋め込み化をあまり経験しないで近代化した。このため個人が抽象的な価値を共有する必要がなく、政府も企業も「空気」で統治されてきた。首相の中部電力に対する法的正統性のない「要請」は、その最たるものだ。

こうした部族的道徳による統治には限界が見えているが、多くの人がそれを自覚していない。法の支配を無視した首相の要請を賞賛する「知識人」が多いのは困ったものだ。それに代わるシステムを構築するためには、西洋で500年以上にわたって続いたキリスト教の世俗化が必要なのだとすれば、われわれの直面している困難は想像以上に大きいのかもしれない。

コメント

  1. senkome より:

    西欧の法体系は、背後に神が定めたもう律法を持っている。だから西洋人はこれに自律的に関わり従属する。しかし、日本の法体系は、西欧の法体系を外形的に猿まねしただけで、背後にはこの律法に基づく遠近法がない。本質的に空虚なのだ。だから裁判官がいくら黒いガウンを着て権威付けしようともいくらでも人間の都合で便宜的に法は解釈出来ることになり、今回の様な超法規的な措置もポピュリズムに長けた為政者の都合で出てくることになる。これを正すには戦前回帰の天皇神聖化か?いやいやそんなことはもう出来るわけがない。だからその時々の空気を読んでの「便法」とならざるえない。

  2. 未来 より:

    ドイツのメルケル首相は、今回の福島原発の事故を受けて稼働中の原発を全て止めた聞きます。
    日本とドイツは政治体制は似ている様に感じますが、ドイツでは首相の一存で即座に停止出来ました。
    日本では、首相が要請するだけで問題と言うのは、何か法律の違いがあるのでしょうか?
    ドイツは連邦国家だと認識しているのですが、地方政府が存在するドイツは日本よりメルケル首相の権限が小さそうなだけに不思議です。

  3. 未来 より:

    ドイツは稼働中の原発を全て停止したと書きましたが、間違っていたようなので訂正しましす。
    メルケル首相は、3月15日にドイツ国内17器の原発の内で古いタイプの原発7器を3ヶ月間停止すると発表したようです。
    デマとか間違った情報は、こういう風に広まるかもと反省しています。

  4. iris60 より:

    丸山真男は「日本の思想」の中で、近世ヨーロッパ国家/社会がキリスト教思考様式の世俗化において成立する様を、鮮やかに、一息に描いて見せ、そのことが政治権力の「正当性の根拠が不断に問われる源泉をなした」と述べています。
    また同じ論考の少し前のところの脚注で、「西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年来以来のテーマが繰りかえし「問わ」れ、真正面から論議されている状況は、戦後数年で「民主主義」が「もう分かってるよ」という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対照をなしている。」とも。
    リバタリアン/コミュニタリアン論争もこうした「何百年来以来」の繰りかえしのヴァリエーションのひとつと思われ、サンデル氏も原発論争がこうした議論の深化につながることを期待しているのでしょう。原発論争は多分に神学論争的であり、そうした神学論争には簡単には結論が出ないかもしれない。それでもそうした論争を切り捨てずに議論を深めることへの模索が、昨今のサンデルブームの根底にあると期待したいものです。