気でも狂ったのかハウステンボス ― 偽物を商売にしないで欲しい!

北村 隆司

長崎県のハウステンボスが「日本の中の外国」を売り物に、日本で初めて英語を“公用語”とするホテルをオープンし、日本人の英語力向上や国際交流の促進を担うそうだ。

館内では接客からレストランのメニューまで原則としてすべて英語で、従業員のうち半数以上は外国人で、英語の他にも中国、韓国、スペインなど約20か国語に対応できるという。要するに英語を公用語と言いながら中身はといえば、長崎らしく言葉も文化もごちゃ混ぜの「ちゃんぽん」と言う事らしい。


無料で招かれたモニターの一人は、「英語で話すことで気持ちを素直に表現できる」と語ったそうだが、本気でそう思っているとしたら、英語の利点と言うより「日本語力」の足りない御本人の問題と言った方が良いであろう。
外国人の総支配人は「世界中から集まった外国人スタッフと、言語だけでなく文化面でも交流できる環境を楽しんでほしい」と得意気だが、これを言い換えると、外国人スタッフが喋る英語も、Baseballをバイスボール、” I went to the hospital today.” を“私は今日病院に死に行った。”と聞こえる発音の豪州弁から、英語を母国語とする人にも聞き難いスコットランド弁、米国南部訛りからボストン訛りまでまぜこぜになる可能性が有ると言う事だ。

そこに中国、韓国、スペインなど世界各国の人達のお国訛りが加わったハウステンボス特有の「公用語」を、本物の「英語」と錯覚する人が出ると思っただけで頭が痛くなる。これは、見かけを飾って内実を誤魔化す「羊頭狗肉」そのもので、日本語でなければ「クール」と考える日本の世相を利用した商法なのかもしれない。

日本語の軽視はハウステンボスに限らない。私が定宿にしている東京の外国系ホテルでも日本語は隅にやられ、英語の表示が幅を利かせている。目に見える表示を全て英語にしておいて、災害などの緊急時に、日本人客は果して安全に避難できるのだろうか?
植民地が独立を果たした後でも、旧宗主国の言語を公用語に採用している国はあるが、自ら望んで母国語を「えせもの」の外国語に売り渡す国を他に知らない。

ここで、日本の風潮を上手く表現したイソップ物語の一つを取り上げてみよう。
“むかしむかしのある時、神様は一番美しい鳥を決める『美しい鳥コンテスト』を思いつきました。
そして、一番美しい鳥には、鳥の王さまの位をあたえようといいますと、た鳥たちは大はしゃぎ。
「孔雀が一番きれいだよ」「いや、スタイルがいいのは白鳥だ」「鳥はやっぱり歌声がきれいでなくちゃ。ウグイスがえらばれるのでは!」 
みんな、大騒ぎしながら、美しくなろうと懸命に川で羽を洗いました。 
それでもカラスだけは、その仲間に入りません。自分があまりかっこよくなくて、羽の色も歌声もきれいじゃないことを知っていたからです。

カラスがしょんぼり川べりを飛んでいると、みんなの抜け落ちた羽がいっぱい散らばっているのを見つけました。「そうだ、こいつでみんなをだましてやれ」
カラスは色とりどりの羽をひろい集め、ぜんぶ自分のからだにくっつけて、かざり立てました。

いよいよ、コンテストが始まりました。神さまは、あのカラスに目をとめ「おや、あんなに美しくて珍しい鳥がいたのか。よし、あの鳥を一番にしよう」カラスは大よろこびで、神さまの前に進み出ました。

すると、一羽の鳥がおこり出しました。「ずるいぞ、カラスめ! わたしの羽をかえせ!」そういって、カラスに飛びつき、くちばしで自分の羽を引き抜きました。

他の鳥たちもいっせいに腹を立て、カラスから自分の羽をむしり取りました。
するとカラスは、前よりもみすぼらしい、きたない姿になりました。“
この寓話は、借り物でいくらうわべをかざっても、にせものだと見破られた後のみじめさを戒めたものである。
真贋を見分ける為に、悠久の歴史を物語る文化財や名作に向きあえと教育されてきた我々の世代からすれば、実物より手軽な偽物を重宝がる最近の風潮は理解に苦しむ。

言語はその使用者の思考様式や精神構造に一定の影響を与えると言うサピア-ウォーフの難しい仮設は別として、人種と民族を分ける重要な要素に「言語」があり、言語は文化と民族の象徴だ、と私は考えている。
一方、国語は日本政府が作り出した一言語に過ぎず、確固たる「日本文化」も存在しない。 したがって、自分の文化、言語を「日本の」ましてや「正しい日本の文化、言語だ」と思うのは危険であり、同時に誤っていると主張する人もいる。
何れにせよ今の日本は、真贋の見分けの重要さや、言語とは?そして文化とは?を立ち止まって考える時期に来た様に思う。