逆説的な入門書 - 『なぜマルクスは正しかったのか』

池田 信夫

なぜマルクスは正しかったのか
著者:テリー イーグルトン
販売元:河出書房新社
(2011-05-24)
販売元:Amazon.co.jp
★★☆☆☆


原著の書名”Why Marx Was Right”は、いろいろな皮肉を含んでいる。第一に、社会主義が崩壊してマルクスは間違っていたと思われている時代に、マルクス自身の思想を正当に再評価すること。そしてもう一つは、彼の思想は近代のオーソドックスな自由主義の延長上にあり、現代の右翼(保守主義)とも通じる面があるということだ。

著者もいうように、マルクスが「平等な社会」を求めていたなどというのは間違いで、マルクスはむしろ所得を平等に分配しようという社会民主党の綱領を酷評した。彼は国家が経済に介入することを拒絶し、労働者が自分の主人になる「個人的所有」を理想としていたのだ。彼が描いた未来社会は「自由の国」であり、この意味ではロックからヘーゲルに連なる近代の自由主義の変種である。

マルクスが「唯物論」で、すべてを経済的な土台に還元するという見方も逆で、むしろ彼の思想は人類の「共同存在」を理想とする観念論だった。彼が資本主義を批判したのは、それが物質的な必然=必要によって人々を束縛しているからで、彼の理想としていた未来社会は、そういう「必然の国」を克服し、物質的な欲望から人間を解放するものだった。

著者の本業は文芸批評だから、この土台/上部構造の図式をデリダ的な「脱構築」の先駆とみなしている。「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」という『ブリュメール18日』の有名な言葉は、テキストの潜在的な意味を解読するフロイト的な方法論であり、マルクスのイデオロギー批判は近代社会を支えている神話を破壊するニーチェ的な「祝祭」だった。だから皮肉なことに、マルクスは本業としていた経済学の分野では今や取るに足りないが、哲学や批評の分野ではいまだに現役なのだ。

本書は、よくも悪くもこうした常識的なマルクス理解を通俗的なマルクス批判に対置しているだけで、それ以上のオリジナルな主張はなく、マルクスの限界を論じてもいない。マルクスが「階級闘争」を呼号し「生産手段の国有化」を求めていたといった話をいまだに信じている人には、マルクスは何ではないかという逆説的な入門書としておすすめするが、マルクスを正しく理解している人にとっては得るところはほとんどないだろう。