「人間」であり続けるために:原発危機のいま読みなおすリスク社会論

與那覇 潤


福島第一原発事故の長期化に伴う混乱は、政局も巻き込んでいよいよ混沌としてきました。私たちの“安全”に関する切迫した問いの数々――「どの程度の放射線量であれば安全か」「いかなる基準を満たせば原発を再稼動しても安全か」「どの程度の予備電力があれば原発を止めたままでも安全か」をめぐって、いかなる見解を表明しても対立する陣営から(親原発/反原発に)“偏っている、中立でない”というレッテルを貼られる状態が続き、多くの人々が“結局のところ、なにが真実なのか皆目わからない”という不安に包まれています。本書はリスク社会学の第一人者ウルリッヒ・ベック(※)による、そのような状況を予見していたともいうべき講演の記録です。


著者ベックの議論は一般に、純粋な自然災害でありその発生に人間は責任を負わない「危険」(danger)と、逆に人間自身の営みが関与するがゆえに、人間が責任を負わなければならない「リスク」(risk)との区別を提唱したことで知られます。圧倒的な自然の威力=「危険」にただひれ伏すしかなかった前近代の状態を脱して、近代の人間はダムや堤防の整備、気象予報や警察・消防の制度化、時に自然現象自体をも改変できるほどの強力なエネルギー機関の開発を通じて、制御不可能な「危険」をコントロール可能な「リスク」に変換してきました。しかしそのことが今や、むしろ“この世界の森羅万象すべてが「リスク」=人間が責任をとらねばならないもの”として観念されるという、究極の苦境に人類を追い込んでもいるのではないか。著者は(反原発も含めて)エコロジー運動が称揚する「自然」という概念に対して、こうコメントします。

自然もまた、あるいは、自然こそまさに、自然なものではなく、[人間が作り上げた]概念であり…実際にあるのは、そして政治的に不穏な響きをたてているのは、自然を社会化するさまざまな形式であり、自然を象徴的に表現したものであり、文化がつくりあげた自然概念であり、自然への相対立する理解であり、その文化的伝統です(pp.75~76)

たとえば放射線自体は「自然」にも存在する物質なので、完全な「0シーベルト」という基準を立てることはできないし、その値は原発事故の有無にかかわらず「自然」に変動するでしょう。しかし、それでは今回の事故に伴って増加させられた放射線量は、どこまでを「自然」にあるものと大差ないと見なしてよいのか?将来になって発癌率の上昇が仮に見られた場合、どこまでを「自然」の帰結と捉え、どこからを事故による影響として責任を追求するべきなのか?原発が「自然」な存在でないことについては広範な合意が得られるとして、それでは代わりに大量の風車や太陽光パネルを大地に埋め込んで得られる電力は「自然」なものといえるのだろうか?――著者が述べるとおり、これらは原理的には絶対的な解を見出せない問いであり、私たち人間自身が“ここまでを自然なものと見なして免責し、ここからを有責としよう”という形で「再帰的」に定義し、かつ「反省的」(ともにreflexive)に見直し続けていかざるを得ないものです。

著者は、このような“あらゆるdangerがriskに変換された状況”が、環境問題のグローバル化(たとえば、放射線の影響は国内に留まらないかもしれない)に伴って、国際的な市民運動を喚起し政治の形を変えてゆくことを、基本的には望ましい変化とみなす一方で、そこで生じるかもしれない陥穽にも警鐘を鳴らしています。議会政治に規制されず民間で発生するボイコットは「エコロジカルな私刑(リンチ)」になるかもしれない(p.118)。地球上に住む全員を主語とする運動は「道義的、イデオロギー的にも実際に誰も、そして何も排除しない…『敵のない政治』」の可能性を開く一方で(p.120)、逆に意見の多元性を抑圧する一種の道徳的な専制を生むかもしれない。「産業社会の罪悪感」に訴え、「ボイコットによって無料で一種の『絶対的自我』を演出することができる」ことの魅力で大衆にアピールする「エコロジカルな免罪行為」は、特定の環境保護団体を「エコロジー問題において貴族のような地位にまで高め…ほとんど制限なく額面を書き込める白紙小切手のような」全権委任状の享受者にしてしまうかもしれない(pp.130、127)。1980年代から「緑の党」の着実な発展を見た著者の母国ドイツとは異なり、今回の事故でにわかに“環境”が政治の主争点に押し出されたわが国にも――わが国にこそ?――当てはまる懸念とはいえないでしょうか。

実際に、原発事故への対応や放射線量基準の策定を議論する人々の口吻がしばしば、異なる意見の持ち主に対して攻撃的なものになることの裏には、まさしくこの“原理的に100%「自然」な正解を見出しえず、すべては人為的に選定された基準に則った「安全」にすぎない”という居心地の悪い状況から、どうにかして「免罪」されたいという欲求があるように感じられます。それはある意味で、人間ならざる神がこの世のすべてに絶対的な道徳基準を定めてくれていた(と観念されてきた)前近代への郷愁であり、これが非西洋圏に根強く存在する徳治主義の政治文化と結合すると、「自然」を聖化するある種の神政政治を産み落とすかもしれません。しかしながらニーチェが容赦なく暴いたように、実際には――近代社会を専門とするベックが本書では論じていない(※※)――前近代の宗教社会においても、そこに君臨したとされる「神」自体がまったく「自然」な存在ではなく、人工的な共同幻想の産物でした。

人間はみずからに固有の動物的な本能から解き放たれることができないがために、その究極の反対物として「神」というものを考えだしたのである。そしてこの動物的な本能そのものを、神にたいする負い目[罪]として解釈したのだった…おお、なんと悲しげで狂った動物だろうか、この人間というものは!行為において野獣であることをわずかに妨げられたからとて、人間は何ということを思いつくことだろう、何という自然に反すること、何という愚行の発作を…(『道徳の系譜学』pp.173-174)

徹底的なイデオロギー暴露(形而上学批判)を通じて人間ならざる「超人」を目指したニーチェは狂死しましたが、私たちは彼を追い詰めたこの、“すべての価値基準が結局は人為的”な居心地の悪い社会で生きていかざるを得ない。いわば人間の限界を知りつつもなお人間として留まり続けるための知恵を、著者の「リスク社会」という視角は教えてくれるように思います。

與那覇潤(愛知県立大学准教授/日本近現代史)

(※)なおベック本人の福島論は岩波書店の『世界』7月号に「福島、あるいは世界リスク社会における日本の未来」として短文が寄せられており(論旨は本書とほぼ同様)、来月末には同社より新たな講演録の刊行も予定されているとのことです。
(※※)同時に同社より邦訳が刊行になるベックの近著『〈私〉だけの神』では、原理主義をはじめとする現代世界の「宗教への回帰」が論じられる模様です。