菅直人首相による浜岡原発の停止「要請」に対しては賛否両論がありますが、批判の有力な論拠のひとつが「法的根拠に基づかない首相のスタンドプレーであり、『法の支配』に反する」というもののようです。このことに関して寄稿依頼をいただきましたので、「そもそも日本は法治国家なのか」を歴史的に考えてみます。
まず確認しておくべきなのは、しごく大雑把に言って、「法の支配」はそもそも人類普遍の現象ではないという史実です。英国のマグナカルタ(1215年)に典型的なように、それは「封建貴族の既得権益」を君主に認めさせるところから始まった(その手段が身分制議会=立法府の設立)、特殊西欧的な政治体制であり、最初から東アジアには当てはまらないのだと思っておいた方がよいでしょう。
法治国家でない国としてとみに名前が挙がるのは中国ですが、これは当然のことで、中華帝国では皇帝の集権化が達成された宋朝(960-1279年)の時点で封建貴族は一掃され、「自由選挙」(ただし投票ではなく試験による)で選抜された官吏のみで行政府を構成する、科挙制度と郡県制(地方統治を、中央から短期で派遣された官吏が行う仕組み)の体制が成立しました。要するに、そもそもマグナカルタを突きつける前に貴族層が全滅したので、法の支配や議会政治といった形では、王権の恣意的権力行使を抑制できない。そのために生まれたのが、朱子学(朱熹は南宋時代の人)に代表される、「万能の君主に“有徳者であること”を義務づける」儒教思想の系譜であり、法治主義に対して「徳治主義」と呼ばれる仕組みです。
翻って日本はどうかというと、古代貴族(お公家さん)が荘園の実効支配権を失って早期に没落する一方、戦国時代の半ばから武士も城下町に集住させられて在地領主ではなくなったため、やはりマグナカルタの担い手たりうるような「封建貴族」は解体されていたといえます。つまり初期条件としては「法の支配」を欠く中国に近かったのですが、一方で江戸時代には「藩」単位で領地の世襲が認められたため、中国と異なり統治者も被治者も比較的狭い地域で、子孫代々同じ面子が顔をつきあわせて暮らす社会が生まれた(西欧のFeudalismとは異なる、「郡県制」の対義語としての封建制)。結果として、みんなが顔見知りだからなんとなく互いの行動が読めるので、逐一議会を通して普遍性のある法制定を行わなくても、そこそこに各自の取り分が守られる仕組みができました。法治・徳治に比すなら「村治主義」とでもいうべき無原則かつ無思想なシステムですが、近代化にあたってもこれが生き残り、地域ぐるみの集票を通じて戦前は政友会・戦後は自民党という巨大保守政党を支えてきました。
現在の日本で進行しているのは、この「法治主義」の不在を代行してきた「村治主義」の解体の最終局面にあたります。2009年に自民党は政権から追い出され、長期不況の下で属する村を持たない「無縁社会」の蔓延が進み、ついに3.11の地震・津波と原発事故で大量の国内難民を出してしまった。「とりあえず同じ地域に住み続ければ、明文化されたルール(法治)なんかなくてもなんとなく安全」という前提が崩壊してしまった以上、残る選択肢として中国と同様の「徳治主義」が浮上するのは自然なことでしょう。つまり、道徳的に「正しい」人物をリーダーに据えて、法律だ何だには一切こだわらずに「正しい」行動をガンガンとっていただき、ただし彼が不道徳な行いをした時だけはみんなで罵声を浴びせてご退場願おう、ということです。ここ数年来の、政策論議よりもスキャンダル暴露の方が政局を動かし、政治論争がしばしば人格攻撃になり、かつ地方首長のような「一人だけのトップ」の言動の方が国会議員のそれより注目を集める現状は、まさにその表れといえるのではないでしょうか。
かくして、菅直人首相の浜岡原発停止要請は、西洋型の「法治国家」の観点からは問題があるとしても、中国型の「徳治国家」のそれとしては、きわめて自然な行為ということになります(もちろん、伝統中国の儒学史が党争に彩られてきたように、原発がどの程度「道徳的」な施設かをめぐっては、存続容認派と反ないし脱原発派とのあいだで、果てしない論争が続くことになるでしょう)。もちろん、ここで「法の支配」のメリットを安易に譲るべきではないとは思いますが、しかし歴史的に見れば「もともと法治国家でなかった国が、その代行モードを村治から徳治に切り替えただけ」ともいえるので、ひょっとすると私たちは法治国家になる西洋化の夢をあきらめて、中国と同様の徳治社会に入ることを覚悟するべき時が来ているのかもしれません。
與那覇潤(愛知県立大学准教授/日本近現代史)
(補記その1):“「法治主義」は実定法全能主義のような悪い意味であって、「法の支配」一般とは異なるものだから混用するな”というご指摘をいただきましたが、「村治主義」なる造語と併称しているとおり、本稿は厳密な法哲学のエッセイではありませんので、ご海容ください。中国社会論等の分野で一般に見られる、「徳治」(ないし人治)の対としての「法治」の語法です。
(補記その2):“徳治で行動しているのは政治家くらいのもので、企業はきちんと法治を実現したからこそ欧米圏でも活躍している”とのご意見について、分野ごとの違いはもちろん重要です。一方で、(よくも悪くも)株主の法的権利ではなくステークホルダー間での利害調整を重んずる「日本的経営」のガバナンスや、一企業の内部で完結し使用者とも妥協的な(ゆえにあまり機能しない)労働組合のあり方などは、経済の分野でも「村治主義」のインフラが機能していることを示すものと思います。特に前者が、企業のグローバル化にあたって海外市場との摩擦の要因となる所以です。
コメント
非常にわかりやすく、明快で、もやもやしていたものがきれいに説明された感じがします。
たとえば法治主義を主張する池田信夫氏自身にしても「放射性廃棄物の問題も含めても原発は経済コスト的、世代間道徳的に見合うのか?」と問うと、ツイッターはブロックするわ、コメントは承認しないわという無原則な方なので、法治主義という言説自体が恣意的であるように思えてなりません。
中公新書の「昭和天皇」(古川隆久)では、徳治主義や立憲君主制、政党政治などの並立に苦悩した昭和天皇の姿が描かれています。
日本は徳治主義が向いているのかもしれませんが、易姓革命が起こることが期待できそうにないので、やはり法の支配を進めるほうがよいと思います。
確かに文化論としては的確だし、現状を説明するには良い説だと思います。しかしながら、文明開化の明治以降、日本はあくまで「法治国家」として生きる道を歩み、国際化を図ったのではないでしょうか。それがもし建前としても。
だからこそ、不透明なルールの存在が疑われる一党独裁である中国やその周辺国家、イスラムの多くの国と日本を含む西洋国家は時として文化的な軋轢を生むのだと思います。
あるいは、国際社会の一員として生きるためにはご指摘の中国的な仕組みは、発展途上時には有効であったとしても、先進国家になった時点で卒業せざるを得ないとも言えると思います。
翻って現代日本の企業活動、すべての経済活動は、たとえ人事面で村治主義が残ったとしても、透明なルールに基づいて運用する事が義務づけられ、期待されています。なぜならばそれが投資を集め商品を購入してもらうための必須条件だからです。
企業にとって、それを昔の「なぁなぁ」に戻す事は法律、経営的に不可能です。誰も怖くて購入してくれなくなるからです。
法律上のルールに基づいて運営されている企業に、「村の長老のご意見」を通す事はルール破りですから、できないのです。
企業活動はすでに「村治主義」から卒業している(せざるを得なかった)のです。残念ならが政治家と国民の多くが落第している事が明らかになった以上、企業はこの国から卒業せざるを得ないでしょう。
本職を歴史学者とする方が本気で書かれた訳ではないかもしれない記事にコメントしても仕方がないのかもしれませんが。上記の論旨は、「現在の日本の状況が法治とは言い難い」「法治とは西洋の政治文化に根ざすもので、日本に深く根ざしているとはいえない」「中国のありように近づいているのでは?」の3点のようですが、そのうえで、日本にとって法治など不要だというご主旨なのか、あるいは、どうせ法治なんてできないよといったご主旨なのか、または、日本の現状は徳治という点ではすばらしいというご主張なのか、付け加えて頂けないでしょうか?仮に自己韜晦に隠れた現状への嘆きなのだとしても、ご主旨が伝わりません。
「村治主義」なるほど。
「こう見える。そのことについての良し悪しや、要・不要といった価値判断は聞き手・受け手にお任せする(あるいは抜きにする)。」という一線が保たれて、公共に関する議論は進展します。
しかしムラ発想は、その一線を越えて、自尊心とか、利己心とか、虚栄心といった主観的ゾーンへ一気になだれ込む。そして自己愛が満たされるならOK、そうでなければNO!。「こう見える」だなんて、自己愛をそそらぬ発言では、判断がつかない。というような基準があると思います。
加えて、村規範であった道理は科学的根拠に欠けるとされ、お天道さんに恥じぬ振る舞いというような徳はどうなっているでしょう。道理は曲げられない。反省すべきは反省する。という態度は自虐的とされる。保守においてさえそのようなメンタリティが見られます。
徳も必要、法も必要。また、悪徳もあれば、悪法もある。徳を裁ける法を求め、法を裁ける徳を求める。いずれも人間社会のものですから、両方が必要です。
一切を引き受けて、いい感じにバランスさせる。古来から行ってきたように、そこに、日本の進む道があるのではないのでしょうか。
> yashihara さま
「自己韜晦」をお読み取りいただき、ありがとうございます。仰るとおりの韜晦家につき、あまり「日本人はこれこれしろ!(するな!)」というストレートな調子で議論するのが苦手なのですが、強いていえば、
1. 日本社会は歴史的な由来から、西欧社会よりも中国社会に近い部分が多々あることを知っておこう。
2. なので、西欧的な基準から仮に外れたとしてもそこまでカッカせず、一方で放っておくと中国と同じような社会になる可能性って結構あるのかな、くらいの認識はしっかり持ちながら、のんびり問題を考えてみよう。
というくらいの趣旨だとご理解いただければ幸甚です。
私には與那覇さんがおっしゃるほどには、日本には徳治というものが根付いてはいないと思えるのですが如何でしょうか。
これは日本の歴史的経緯から見られるひとつの有り方ではなくて、単なる(愚かなリーダーの)権力の乱用に過ぎないと思っています。
たしかに平安時代初期くらいまでは、天皇によって徳治が行われたように見受けられますが、それ以降政治が権威と権力に分離するに従って、徳治もまた権威に寄り添い、世俗的な権力にはそういった徳はそれほど要求されてこなかったのではないかと思います。例えば鎌倉武士的なリアリズムは、徳治とは全く別方向を向いているのではないでしょうか。
明治以降天皇が政治の場に復活するに従って、再びこういった徳治的傾向が復活したかもしれないことは否定しませんが、だとすればそれは西洋的か中国的かというよりも、天皇という存在のほうを先に見るべきかとも思います。
>cathedralinasuitcase さま
貴重なコメント(TBも?)ありがとうございました。仰る通り、中国皇帝の「徳治」が「権威と権力の一致」を前提とするのに対し、日本では中世の武家政権以来「権威と権力の分離」が進行しました。分かりやすくするために逆の例を出すと、伝統朝鮮の政治文化が日本でなく中国に近いのは、モンゴル帝国侵攻時に同地の「武家集団」が抹殺されたからです(三別抄の乱)。
一方で、中国式の徳治=権威と権力の一致を取り戻そうとする衝動は、明治維新以前にも建武新政の例があります。後醍醐天皇のブレーンは宋学を学んだ禅僧だったので、これが長続きすれば日本の天皇制も中国の皇帝制と同一になった可能性があるとは、網野善彦が谷川道雄氏との対談で述べています(『交感する中世 日本史と中国史の対話』)。明治維新の際も仰る通り、元田永孚ら一部の宮中儒学者が同様の試みを行いましたが(天皇親政運動)、伊藤博文らの「法治」派に阻まれ、しかし諸事情により伊藤が結成した政友会も事実上の「村治」政党に終わりました。
したがって、徳治を考える上で天皇の問題が抜けているのが片手落ちだというのはご指摘の通りで、これ以上長く書くと誰も読まないので省いたものです(笑)。現在も今上天皇(権威者)の慰問活動が好評な一方、菅首相(権力者)の「不徳ぶり」が叩かれていますが、これは終戦直後の昭和天皇と吉田茂(いつも上から目線で態度が大きく暴言家)の関係と同じです。むしろ、戦前への反省をはじめとする様々な制約から、今日では天皇を(政治絡みの話題では)「有徳者」としてあまり前面に押し出せない分、首相がそれを期待されてしまう(がなかなか果たせない)ところに、問題があるのではないかと思います。
ご返事ありがとうございます。
網野善彦に言及されると、西国国家と東国国家というタームでの見方でも可能となってきますね。西国=徳治と東国=村治とか。もっともここまで言うとちょっと観念的すぎて成り立ちそうもありませんが(笑)。
徳治の系譜という点では、天皇の権力は遡れば中国の王権の派生である可能性もあります。菅政権の乱れ、言うなれば「菅王の擾乱」でここまで言ってしまうのも、どうかと思いますが、いずれにせよ現実的な方向での政権運営を行って欲しいものです。