井上氏が「医学部はいらない」という記事をエントリーしているが、私は強く反対する。
なぜなら、この議論は教育と学校の本質をわかっていないからである。
私は今、ビジネススクールという場で教師をしている。ビジネススクールにおいて、教師は何が教えられるか。
何も具体的なことは教えられない。
マネジメントの真髄など、マネジメントをしたことがない学校の教師にわかるはずもない。実務経験のある教員も多いが、コツや真髄を聞きたければ、最前線の現役の経営者か、あるいは、本当によいコンサルタント(これはほとんど存在しないが)の話を聞くべきである。
たとえば、昨日、作詞家の秋元康氏の講演会をわが校で行った。すばらしい話だったし、本校の卒業生と学生しか参加できなかったから、彼女たち、彼らにとっては学校に来てよかったと思えた日であっただろう。
しかし、ここで重要なのは、秋元氏が学校に来て講演をしてくれたことである。
秋元康氏の講演は、どこか別のところでも聞く機会はあるだろう。しかし、彼の講演は、学校でするのと、経済産業省の幹部の集まりでするのとでは異なる。なぜなら、彼は生きており、講演というものも生き物であり、それは「場」に支配される。
「場」とは、聴衆に大きな影響を受けるがそれだけではない。建物や部屋、その場の雰囲気に影響される。そして何より、聴衆も生きているから、同じ聴衆でも彼らの心構えで大きく変わる。聴衆が固唾を呑んで見守れば、気合の入った話になるし、彼らがリラックスして、自由に質問する雰囲気なら、話しては、自由に話で遊び泳ぎ舞うことができるだろう。
音楽のライブと同じである。
さらに、昨日は、講演会のあと、気軽な懇親会があった。その場で、秋元氏の講演について、学生たちが、先輩たちと教師と様々な議論をすることがたまらなく面白いのである。賛成でも反対でもいいし、さらに新しい発見をぶつけ合うのであれば、最高だ。昨日は、そんな日だった。
つまり、学校とは、そのようなすばらしい「場」を提供しているのである。
だから、教師の知識などどうでもいい。
ビジネススクールでは、教師がカリスマ経営者ではむしろだめで、なぜなら、みなが彼の話をバイブルのように聞くだけでダイナミズムも新しいアイデアも生まれない。先輩後輩もなく、自由に創造的な議論をすることだけが重要であり、教師はそのためのディスカッションリーダーなのである。
したがって、学校において教師よりも重要なのはクラスメイトであり、先輩後輩である。彼らが学校の雰囲気と文化と「場」を作る。
教師は、それを邪魔せず、伸ばしてやる、そういう人材が望まれるのであり、教えてやる、という教師は最悪だ。
そして、それこそが教育というものだ。
学校を予備校や試験突破参考書の代替物と考えれば、このようなことは一切無駄であろう。
しかし、学校は、それらの代替物ではないのである。
ビジネススクールで起業プランを抱えた若者たちがぶつかり合うように、よりよい医療に燃える医師の卵たちが、司法を担う気概のある若者たちが、仲間と議論し、切磋琢磨する「場」が必要なのであり、それには学校がふさわしい。
もちろん、現状の医学部やロースクールが、そのような「場」になっていない、という問題はある。
だから、問題は、医学部はいらない、のではなく、すばらしい「場」となる医学部をつくることなのである。