私が先日投稿した「メールの時代はいつ終わるのか?誰が終わらせるのか?」の記事に古川 賢太郎さんから「メールは終わらないのではないか」という意見をいただいたので、それについて私も意見を述べさせていただきたい。
古川 賢太郎さんがおっしゃったメールが終わらない理由には二つあり、まず一つ目が、
今でもメールで「書き出し」や「書き終わり」の作法や文章の類型といったものがある。これは長年にわたって形成されてきた「儀礼様式=プロトコール」である。これが未だになくならないのに、メールと言う通信方式=プロトコールがなくなるとは思えないのだ。つまり、機能であるメールは様々なサービスに埋め込まれてずっと残るのではないかと思うのだ。
この意見を理解するのにかなり苦しみました。儀礼様式がなくならないからメールもなくならないというなら、メールには儀礼様式が必要だということになります。メールでの「書き出し」や「書き終わり」といえば
○○○株式会社
関西支店 関西営業本部
営業第3部
部長 ××様お世話になっております。株式会社△△の□□です。
本日はお忙しいところ、ご足労くださいましてありがとうございます。
お打ち合わせでおっしゃってました確認事項・・・・・・・・・また何かご不明な点などございましたら
早急に調査させていただきます。
よろしくお願いいたします。[送信者の署名]
のような事だと思います。確かにメールを使う場合はこういった儀礼様式がないと失礼にあたる可能性があるため、ほとんどの人が少なからず儀礼様式に注意してメールを書いています。しかし、この儀礼儀式はすでに省略される流れに来ています。そうなった影響はFacebookやTwitterのメッセージ機能です。そこではそういった習慣ないからです。それに、我々は携帯電話のメールなどでは要件だけを伝える習慣がすでについています。ポケベルからのメッセージサービスの流れで、昔はメールに字数制限があり余計な文言は省略する必要があったので、そこで鍛えられたのでしょう。だから、このような儀礼儀式にメール一通あたり数十秒の時間を費やすことが本当に必要なのか。必要というならそれは最初にも述べた儀礼的な意味だ。技術的な意味ではない。それに格式が高いメッセージを送りたいのであれば、便箋に書いて手紙で送ればよいだけなので、儀礼様式があるのでメールがなくならないという理由にはならない。
古川 賢太郎さんが二つ目の理由として述べられたのがこちらです。
FacebookやGoogle+は実際には歴史を繰り返しているのではないかと思っているからだ。その歴史の中でメールは無くならなかった。僕の所謂“SNS”事始めはGREEだった。親しい友人とのコミュニティから好きな小説のコミュニティなどを渉猟していた時に、不意にデジャヴに襲われた。
「これはニフティサーブだ」。
これについて私は前の投稿で下記のように書きました。
古くからの習慣を変えるには強力な企業力と動員人数が必要となるからだ。世界中で利用されているメールを止めるには、現時点で少なくとも数千万人以上の顧客がいる企業でなければならない。そして、その企業がハッキリとしたメール終息への方向性を示せることが条件となる。
私はニフティサーブを利用したことはありませんが、これはインターネット普及前から始まった日本人ギーク向けのサービスだと認識しています。世界に展開するサービスでもなければ、数千万人も会員がいません。これでは私がいう条件を全く満たしておりません。サービス内容という意味では歴史は繰り返しているとは思います。
私は、メールがこれからもメッセージサービスのメインストリームになるとは思っていません。同時にメールが世の中から消滅するとも思っていません。それは私も古川 賢太郎さんも「枯れた技術の安定感」というところで同じ意見です。保守的なサービス向けにはずっと使われるでしょう。そして、業務やプライベートでの文字伝達手段として使うメッセージサービスのメインストリームはFacebookやGoogle+のメッセージ機能になるでしょう。ウェブメールの登場であまり気にしなくなりましたが、メールには
・Outlookなどメールクライアントの複雑な設定
・メールサーバーのトラブルでメールが届かないことがある
・迷惑メール対策が大変
といった問題があります。もう当たり前になりすぎて私も苦労と感じなくなってきましたし、致命的な問題とは思いません。しかし、ほとんどの人がメールを文字の伝達手段として使っているため、これらの理由で作業効率を低下させているのは問題で根本解決が必要だと考えています。
サイトM&Aコンサルタント 阪上健生
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