「復興財源」論争―小泉純一郎を懐かしむ!

北村 隆司

日本の現状は多重債務者と似ている。違いは、更なる借金が簡単に出来る事だろう。その為、復興財源と言えばすぐ赤字国債発行法案の様な安易な道に走る。だからと言って、この安易な借金政策が、子孫に「自立」を説く西郷隆盛の「我が家の遺法、人知るや否や、児孫のために美田を買わず」と言う教訓に従ったものとは考え難い。


家計が苦しくなれば、先ず考えるのが無駄を省く事と、不要不急資産の処分(売り食い)である。収入を増やす努力も並行して進めなければならないが、これは他人様のお助けがないと出来ない。この事は、国家財政の手順でも同じで、その順番を審議会にお偉い先生を招いて決めて戴く様な物ではない。

不要不急資産の処分で手っ取り早い方法は、国の事業投資の全廃に踏み切ることだ。廃止の順番を決めるには、仕切りなどと言う複雑な儀式は不要で、事務次官の天下り指定席から民営化するのが一番だ。

天下り先は職務の重要さで決まるのではなく、退職時の地位に従い美味しい順番に決まる風習からも、美味しさと国民負担が連動している事は明白だ。要するに、トップが大物であればあるほど国民負担が大きいと言う、歴史的検収結果が出ていると考えるのが正解だ。

こんな自明の事でも審議会や仕分けにかければ、必ず「専門家」が必要と言う論議になるが、職歴に関係なく退官時の地位で決まる利権的地位に、特別の専門性が必要である訳がなく、適任者は掃いて捨てるほど居る。「官」が事業に向かない事は世界共通で、官はコストセンターに特化すべきである。

国の関わる事業を民営化する事で、復興資金に廻せそうな資金源は、思いついただけでも、30以上の巨大組織があるが、主な物を並べてみると:

農林漁業金融公庫、日本中央競馬会、日本電信電話、日本郵政、商工組合中央金庫、日本アルコール産業、各旅客鉄道会社、東京地下鉄、成田国際空港などの空港会社、各高速道路会社、国民生活金融公庫、国際協力銀行、日本政策投資銀行、日本たばこ産業、又、日本中央競馬会が運営する競馬をはじめ、競艇、競輪、オートレース、宝くじ等の公営ギャンブルの全てなどがある。

これだけでも数十兆円の一過性国庫収入があり、天下り先の給与と退職金が次官級になると10億に迫る退職後の生涯収入を得ていると言われているだけに、一族郎党分も入れれば、追い銭がなくなるだけでも国家財政への貢献は巨大である。更に、公務員給与は2割削減しても民間の平均給与よりも高い現状だけに、その改正も重要な懸案であろう。兎に角、少子老齢化に悩み、千兆円に昇る借金を抱える国にしては、余りに無駄が多すぎる。

国営事業の民営化に当っては、民間が所有権を持つ事がキーポイントで、国が民営化された組織の株式を保有する事は厳禁である。但し、国策、国防上の問題のある組織は外国人の株所有を制限する事と、市場の準備が不備で国の資産が適正価格で消化出来ない場合は、国は優先株やウオラント等を持つ権利は保有すべきであろう。

無駄か、ばら撒きかは別にして、子ども手当、高校授業料無償化、高速道路料金の無料化、農業者戸別所得補償制度が、東日本大震災に見舞われた現在の日本で緊急度の低い政策である事は、民主党も異論はあるまい。従い、これ等諸政策の一時棚上げも必須要件である。

問題は、これ等の常識的な諸策の必要性や緊急性を、判り易い言葉で国民に訴え、説得出来る指導者がいない事である。だからと言って、その役を堕落した日本のマスコミに期待する事はとても無理である。

一昔前、石原慎太郎氏が福沢諭吉と大隈重信を比較して「福沢の方が偉い。それは彼が後生に残る言葉を残したからだ」と発言した事があるが、なる程と思わせる昨今だ。と同時に、福沢の残した言葉の殆どは、石原氏の嫌いな米国の言葉の翻訳だった事も面白い。これは、言葉の力で政治家を鍛える伝統がない日本への警句と捕らえるべきかもしれない。

本来、指導者と言葉は切っても切れない関係にある。内田樹教授はオバマ大統領、池田信夫教授は小泉元首相を挙げて、世論を動かす言葉の力の強さと指導者の関係を説明しているが、政局中心の権力ブローカー的政治家が力をもって来た中で、小泉純一郎だけが言葉の力で権力を取った事は敬服に値する。

小泉元首相は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と訴え、変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て2001年4月には87%を越える世論の支持を得た。

繰り返して置くが、ここで強調したいのは小泉改革の是非ではなく、小泉元首相の指導性の見事さだ。その力の源泉になったのが「構造改革なくして景気回復なし」「官から民へ、中央から地方へ」「聖域なき構造改革」「郵政解散」等の判り易い言葉である。この簡便で明白な言葉が国民の支持を得て、特殊法人に群がる族議員を中心とした抵抗勢力を粉砕したのだ。

金融機関の存続さえ疑われた重大な危機に見舞われた当時の日本は、小泉首相の下で、国債30兆円枠のシーリングによる財政管理政策を打ち出し、一貫して増加傾向であった一般歳出の増加を抑制し、その後微減傾向に転換するなど「七転び八起き」と言う意気込みを感じたが、菅首相の下では「七転八倒」に近い心境になってしまった。それは何故か? 

理屈と弁解、私利私欲に固まる指導層も問題だが、それを許した方が安易だと思う国民の怠惰にもある。その点、小泉純一郎が居ないのが残念だ。小泉的指導者の再来は望むべくもなく、政治家、行政、マスコミが国民や被災者をそっちのけで政局に血道を挙げている現状では、手続きの難しい税制や国債問題より、団結して国家の無駄の排除を国家に迫るしかないのではなかろうか?