「放射線の被曝限度の見直しが必要だ」の記事を見ました。この件の内容に関して、筆者は慎重な立場を取るもので詳しくは拙稿の「価値観が分かれる中、低線量被ばくに対し食品・情報など選べる環境作りを」で述べている通りです。
安心安全に関する考え方は職業・思想信条・価値観・家族構成・社会的な立ち位置などによって全く異なり、特に放射能に関してはそのスタンスが全く異なっています。学識経験者や知識人の立ち位置による論評は別の機会に譲るとして、今回は「行政が設定する安全基準は、なぜマージンを取るのか」について触れたいと思います。
今回の原発事故による避難者数は、約11万3000名にのぼるとされています。おそらく行政側で大規模な避難のモデルケースにしているのは、下記の2点でしょう。
1)1986年の伊豆大島三原山噴火による全島避難の避難勧告→約1ヶ月で戻ることができましたが、大規模な避難としてはこれが戦後最初のものといえます。
2)2000年に発生した三宅島噴火による全島避難→9月2日から全島民が避難しましたが、火山ガスの放出が続いて最初に解除されて戻ることができたのは、4年5ヵ月後の2005年2月1日・最後まで居住禁止区域だった三池・沖ヶ平地区の居住制限が解除されたのは、今回の東日本大震災直後の2011年4月1日と、10年あまりにわたりました。
特に三宅島の場合はこれだけ長期化しましたので、当然として避難先で仕事先など生活基盤を新たに作り上げた場合や、高齢化などで帰島をあきらめた住民の方も相当に及びます。今回の原発事故における避難におきましても震災後半年を迎えるということで、周辺自治体の首長さんのインタビューなどを見ますと、仮に除染が順調に進んで戻れる環境にあっても、いざ住民に「戻れます」という判断を当事者として行うのは、やはり慎重にならざるを得ないといった内容は重みのあるものでした。
慎重になる要因は
1)地縁血縁の強い中で、地元の声に配慮する必要がある
大島・三宅島にしても今回の福島にしても地縁血縁の強い土地柄で、考え方や家族構成などがある程度分かっているところでもあります。行政の側にしても住民の動向や考え方など”顔が見える”状況ですと情が入り込む余地が大きくなり、どうしても判断が慎重になります。
また住民も選挙や異動がありますが、首長や職員をある程度知っていますとその声が届きやすくなる、また大きな声も少なくない状況では、安全や安心の考え方が慎重になりがちです。
「顔が見える」状況は、考えていることがある程度わかるため、判断・行動などをかなり拘束される要因になっています。
2)メディアによる報道や批判
メディアの報道も「苦悩する行政」といったほかにも、「あれから何年、長引く避難」・「日常に戻るまでの道のり」といった「えくぼ記事」「人生ドラマ記事」になりやすい傾向にあります。仮に早めに避難を解除してもう1度全島避難になった場合には、行政の判断や対策に対して「何をやっているんだ!」といったメディアの非難や批判が殺到しますし、その場合には行政ではペナルティとして担当部署全員の異動など起こりますので、判断が慎重にならざるを得ない大きな要因です。
3)確実さが求められる社会風土
住民やメディアからの声もありますが、同時に判断の確実さが求められる社会でもあります。
こうした大規模な避難に関しては、学識経験者・有識者などの意見などオーソライズされた根拠が求められますし、他の分野で見ますと、例えば2012年春に開通が言われる新東名高速では、走行する設計速度が時速140キロでも、警察が安全を理由に今までの道路と同じく80キロもしくは100キロとしていることなど、安全安心や確実さを求める風土も大きく左右しています。
そうした社会風土の中で今回の原発事故を見ますと、ヨーロッパでもチェルノブイリの事故後には対策の緩和が早すぎた、といった批判が現在でもありますが、「リスク規模が大きくなると、判断が一気に寛容になる」傾向は否めません。
また今朝の新聞記事では、以下の内容がありました。
福島市一部で3マイクロシーベルト超 政府、対応判断へ
http://www.asahi.com/national/update/0910/TKY201109100553.html
現実問題として基準に関して色々と論議がありますが、放射線量が年間20ミリシーベルトを超える可能性のある居住世帯や、その周辺の妊婦や幼児のいる世帯が、色々な論議がありますが避難対象となる一定のコンセンサスが形成されつつあります。
また被曝限度や食品などの暫定基準は、「現実的に避難を進める」・「新幹線や高速道路などを寸断しない範囲でやっていく」・「農作物や食品生産など、生産して経済を回していく」範囲で、事故前に存在したもともとの安全基準が厳しすぎたことから、状況を見ながら相当に緩くして運用していますので、いかに元々想定をしていなかったか、狼狽しているかが分かる状況になっていると言えるでしょう。