何故日本では「事業再編」や「大型合併」が遅れるのか?

松本 徹三

経済のグローバル化は、否応なしに市場競争力による供給者の選別を促進する。日本市場だけで競争している場合は、似たもの同士の間の競争に留まるケースが多く、差がつきにくいが、世界市場を舞台にした競争になると、強者と弱者の差が大きくなり、弱者は生きていけなくなるからだ。


競争力をつける為には、当然「合理化」が最も有効な方策の一つとして考えられる。そして、「重複投資をやめて『規模の利益』が享受できるようにする『企業間の合併統合』」は、この「合理化」の為の一つの重要な方策となる。最近多くの大型合併の記事が新聞紙上を賑わしているのもそれ故だろう。

しかし、日本では、相当に追い詰められない限り「大型合併」はなかなか実現しない。その理由は下記の二点にあるのではないかと私は思っている。

1)企業の経営者に「世界市場でトップに立てないのなら、やる意味がない」という考えを持つ人が少ない。(積み上げ方式でトップに上り詰めた経営者は、「恒常的な赤字に陥らない限りは、それぞれの部門がそれぞれに頑張る」という基本理念に捉われがちで、見込みの乏しい部門の廃止や売却をなかなか決断出来ない。)

2)人材市場に流動性がない為に、多くの企業において「自社の既存の正社員を守る」ことが重要な経営目標の一つになっており、それが「雇用の確保」だけに留まらず、「自社の正社員が新しい職場でもこれまでの地位を確保出来るようにする」というところまで拡大している。

「撤退」や「転進」は、「先んずれば人を制す」の言葉通り、タイミングが最も重要であり、「追い詰められてからやる」のは最悪なのだが、「経営者の器量」や「企業文化」が邪魔をして、実際にはこうなってしまっているケースが実に多いようだ。そして、その原因となっている上記の二点の何れもが、日本独特の「企業」と「人」との関係に起因しているように私には思えてならない。

一般に欧米の企業では、一つの事業目的が定まると、それを遂行するのに必要な「人」のスペックが定まり、それから人選が始まる。適格者が社内で見つかるか、社外でしか見つからないかは、時と場合によって当然異なる。しかし、日本の場合は、通常は「社内で見つける」のが前提であり、しかも、「そのポジションが要求する能力」よりも、「動かせる人間は誰か(適当なポジションを探してやらなければならないのは誰か)」が優先的に考えられる。

多くの日本人が今なお自ら賞賛してやまない日本独特の「企業と人との濃密な関係(企業は社員を庇護し、社員は企業に忠誠を誓う)」が、本来最も重要であるべき「ポジションと能力の濃密な関係」を犠牲にしてしまっている傾向は、現実に随所に見られる。

多くの合併会社や合弁会社において、当事者が最も熱くなるのは「どのポジションをどちらの会社の出身者が占めるか」という問題だ。「個々の人間の能力や適性」は「二の次」になり、「どちらの会社の出身者か」が最重要視される。新しい会社の業績は、実は「重要なポジションについた人の能力」によって決まるのだが、それが「二の次」とされるのは、何とも奇妙な現象だ。

もう時効だから披露してもよいと思うが、今から二十数年前に、米国駐在から戻った私はI商事とT自動車が中心となって設立した国際通信会社の本社側の担当責任者になった。或る時、重要なポジションの人事について、T自動車側から「このポジションにぴったりのこういう人物がいるから彼を出したい」という提案があり、メーカーではないI商事側にはその分野に経験のある人間が見当たらなかったので、私は「渡りに船」とこの提案を受けようとした。そうしたら、その会社に出向していた私の先輩は、「君は一体何を考えているのか。本社がそんな姿勢では我々はやっていられない」と激高し、私は目をシロクロさせる破目になった。

私にすれば、「人材というものは鉦や太鼓で探さねばならないものだ。もし自社にそんな能力のある人がいるのなら、そういう人は自社100%の仕事の為にこそ温存したい。合弁の相手が適格者を出してくれるというのなら、こんな有難い事はない」と単純に考えたわけだが、そんな考えは、昔も今も、日本では「非常識」と言われるものなのだろう。

<これはまた違う次元の話だが、同じ頃、この会社のパートナーだった英国の会社のトップから、「旧知の外務省の某若手官僚をスカウトして、この合弁会社の自社を代表する常勤役員にしたい」という申し入れがあった。「ああ、そうですか。日本人なら日本語が分かって好都合ですね」と答えようとしていたら、郵政省(当時)から「一体あなた方は何を考えているのか。よりによって外務省とは、非常識にも程がある」と大目玉を食った。ここでも、世界の常識は日本の非常識だったわけだ。>

合弁会社というものは元々難しいものだ。各企業ではそれぞれにその企業特有の「文化」というものが形成されていて、それが異質の「文化」に遭遇すると理由もなくギクシャクする。新しい会社の目標の達成に邁進する前に、そんな事で角を突き合わせたり、逆に遠慮し合ったりしていたら、本末転倒もいいところなのだが、「文化」の問題は「収支勘定」と違って数字で計れないので、現実にはなかなか難しいようだ。

この問題は、実は東洋人と西洋人との根本的な相違にも起因するのかもしれない。西洋人の多くはキリスト教のような一神教の影響下にあり、常に各個人が全能の神と向き合っている。言い換えれば、色々な決定を行う時には、常に「それが正しいかどうか(合理的な決定なのかどうか)」だけを考えるのだ。

これに対し、儒教の価値観の中核をなす「仁」「信」「義」「礼」「忠」「孝」等は、全て人間と人間の相対的な関係に関連している。(だから、昔の日本人や、中国人、韓国人は、「忠ならんとすれば孝ならず。孝ならんとすれば忠ならず。嗚呼、如何せん」等と言って悶え苦しんだのだが、西洋人は「神の御心のままに」とか「インシャラー」等と言って、それで済ませている。)

それ故に、東洋社会では、「組織への忠誠心」が「正邪の判別」に優先するケースが多い。自分の国や自分が所属する組織、或いは自分に近い個々の人間(親分や兄弟分)が、仮にどんなに悪いことをしていたとしても、それを庇うのは「忠」や「義」の観点から当然のことであり、それでこそ人間として尊敬されると考えているからだ。

さて、世界市場を相手にしたビジネスの話に戻ろう。ビジネスの世界でも、儒教の教えが通用するところは沢山ある。その中でも、最も重要なのは「信」(英語ならCredibility)だ。しかし、西洋では、「信」は、概ね「契約」や「権利・義務」の概念と一体化している。また、全てのビジネスは、所詮は「損得勘定」を抜きにしては存在しえず、「損得勘定」は「合理性」をベースとしている。ビジネスに必要な「信」は、「組織と人間の濃密な関係」とは関係なく、もっと広い概念だ。また、「信」は「合理性」とは矛盾せず、むしろ表裏一体のものと言ってもよい。

結論を言うなら、日本企業は、この際、「組織と人間を一体として考える」旧来の思考形態から脱却し、「目標の遂行」を一神教の「神」に見立てて、この為に全ての決定と行動を合理的に組み立てていくべきだ。そうすれば、「既存の組織から脱却した『全く新しい組織』の迅速な構築」と「適材適所の人材によるその合理的な運営」が可能となり、多くの分野でトップ企業を生み出すことが出来るようになるだろう。