知的な議論の目的は何か

小幡 績

井上氏の議論に私は、結果として、いつも反論しているが、今回は、反論ではなく、エッセイを書きたい。

この記事に違和感を感じるのはなぜか。それは、以前から気づいているのであるが、この際、はっきり書いてみたいと思う。

それは議論がダイナミックでなく、同時に、現実を実際に改善する、という目的と無関係に、議論のための議論をしているからだと思う。

これは、井上氏、個人を批判しているのではなく、日本の論壇を批判しているのだ。

実際、私の議論よりも井上氏の議論の方が、少なくともアゴラ上、あるいはネット上では評判がよく、支持者が多いからだ。役人崩れの私の議論は、その経歴も影響しているが、というよりも、やはり、本質的に考え方として人気がない。

それはなぜだろうか。

私の結論は、それは私がまじめすぎるからである。


つまり、議論のための議論をする気がなく、議論の勝ち負けは気にせず、また第三者の反応を考えず(たとえば、こういう書き方をすれば、役人らしい考え方だ、という反応で思考停止する人たちもいるだろう、ということをあえて考慮せずに)議論しているから、私はくそまじめで、だめなディベイターなのである。

そもそも、私はディベイトが嫌いなだけでなく、教育上、有害だと思っている。議論というものは、相手を説得するためにやるのではなく、真実を明らかにするためにするものだからである。だから、ディベイトというような自分が信じていない立場を主張して相手をやり込めることは意味がないだけでなく、そのような能力をつけることは、そのビジネスパーソンとしての価値を下げるものとなるのである。なぜなら、当人が真実を言っているかどうか、周りからはわからないように防衛する能力を高めることであり、周りが真実を知らない場合は、だまされることになるからである。

したがって、真実を知らない、しかし、議論が達者でプレゼンが上手な一流半のコンサルタントは社会にとって害悪なのであり、そういう学者も同じである。一番始末が悪いのは、そのコンサルタント自身が真実を知らない場合で、わかってだますなら詐欺師ですむが、自分自身もわかっていない、真実を信じ切っている場合には、社会を破壊する恐れすらある破壊者である。

さて、ここでは、そんな大げさな議論をする必要はなく、どのあたりが、ためにする議論、議論のための議論になっており、現実社会の改善と無関係であるが、例示すればいいだろう。

たとえば、大学は前期後期の二期制になっているから、秋と春でずれていても問題がない、という議論は一見筋が通っているようであるが、現実には当てはまらない。なぜなら、カリキュラムというものは、そのプログラムを通じて作られているものであり、1年目の前期に学ぶべきことは後期には学べないのであり、それを翌年度に学ぶことは教育効果が全くなくなってしまうのである。基礎を前期に、応用を後期にやる場合には、それを後期から先にやるわけには行かないだろう。

そして、大学の現状として、二つのクラスを春入学、秋入学と分けてスタートするほどのスケールはないから、それも不可能である。実際に、ハーバードビジネススクールは1000人近くの学生が一学年にいるが、それでも、秋入学だけでなく、冬入学をもうけようとしたところ、現実的には効率が悪く、教育上も望ましくない、ということですぐに止めてしまった。

ここにもう一つの現実がある。学校というのは、機械的に議論しても仕方がない部分があるということであり、それは授業が単なる、教師の教科書などの解説にあるのではなく、クラスメイトを中心とした人間同士のぶつかり合いにより、人間的にも学問的にも成長するという過程にあり、またその結果として、クラスメイト、同窓、というかけがえのない資産を得ることにあるのだ。

それは同じ時期にスタートして、1年間を過ごす方が圧倒的に望ましい。

最後のポイントは、東大はなぜ、米国に合わせる必要があるのか、ということだ。東大は、どうしても優秀な人材を採りたい。優秀な人材は、今や日本で教育を受けることを第一志望としない。それはアジアからの留学生が米国を選ぶだけでなく、日本に生まれ育ってもそうだ、という環境の変化にある。そうであれば、欧米に比べて明らかに劣ってしまった大学教育を立て直すためには、欧米のシステムと整合的にすることにより、少しずつ日本のレベルを上げて、ある程度質において近づけば、日本という社会、文化的背景、そこにいる人々、それらに魅力を感じて日本を選ぶ、アジア人、日本人、欧米人、世界中の人々が増えていく、ということなのだ。

そして、それは東大、という例外的なトップの学校だけでなく、多くの大学が追随しなければならなくなるだろう。

企業や高校との整合性は、それは柔軟に対応することが可能だろう。

優秀な高校生は飛び級をすることが可能になるという可能性もあるし(2年半で大学進学)、大学学部は4月スタートで、4月から9月までは、徹底して教養の基礎力や語学力を学び、10月からカリキュラムが本格的にスタートし、夏休みなどを短くすることにより、これまでの4年間のカリキュラムを3年に濃縮して教育することが可能になる可能性もある。企業は4月採用にこだわる必要もなく、また現実的には、就職活動が前倒しされている中で、4月5月に内々定を得た大学4年生のモチベーション維持のために、インターンや研修を実質的に、大学4年生のうちから行っている企業もすでに多い。

そしてグローバルに人材を取り合うことが例外的な学校にとどまらないようになる時代はすぐ来る。なぜなら、中途半端なレベルの日本の大学に子息を送り込むことが彼らの将来の就職機会を豊かにすることにならないことを父兄は察知し、下のレベルほど、金銭的余裕がある場合は、海外志向を強めているのは、すでに起きている現実だからだ。

したがって、現実的に起きている問題を見据え、日本の教育の質を高めるという目的で議論する場合には、理論的な整合性よりも、そのプランによる結果を考え、必ずしも理論的に綺麗でない9月入学を進めることは十分考慮に値する選択肢なのである。

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さて、このエントリーの結論は、このような私の議論がなぜ不人気か、ということにある。それは、日本のインテリの伝統が、左翼的、反政府的であったことにあるのではないか。しかも、革命を起こし、事故の政府を樹立するのではなく、批判のための批判を繰り返し、壊すことだけが目的であった、戦後の学生運動に原因があるのではないか。その影響を強く受けた団塊の世代は、不幸なことに、その枠組みの中で知性を生かすことになり、建設的な議論をすること、政府を具体的にどう改善するかということよりも、権力を批判することに終始することで、自分たちの知性を守ることを選んだこと、これが背景となって、現在においても、地味で実用的で建設的な議論を行うことが、不人気であるのではないか。

おそらくこの議論も人気がないであろうが。