電子書籍そのものがすでに陳腐! -- 純丘曜彰博士

アゴラ編集部

本を電子化するしないで大騒ぎ。紙で刷るのは資源のムダだ、いや出版社こそが本の質を作っている、うんぬん。しかし、電子化してまで、なんで本じゃなきゃいけないんだ?


人間の思考はメディアが規定する、と、マクルーハンは言う。人間の思考があって、それをメディアに載せているのではなく、人間は、メディアに合わせてしか思考できない。声の時代には歌を唱い、文字ができたら石に年号を刻む。本も、最初は木片か竹棒に、先生の御言葉を書き付けただけ。それが糸で綴じられ、紙で巻物になると、やたら行間や周辺に注釈を書き込みたがるようになる。印刷の初期には、「パンフレット」として独特の紋切り型の世界観が生まれて、それがフランス革命を引き起こし、その後は、パンフレットと定期郵便と自家製本の制度が一緒になって、やたら大河な「超長編小説(ロマン)」がはやった。

さて、現代の我々の思考は、二十世紀の初等教育とザラ紙雑誌でできている。喫茶店や理髪店で、雑誌の発行の順番にかかわらず回覧されるために、ここでは各回読み切りで主人公が初期状態に回帰する「小説(ノヴェル)」が発達。そして、これが、本屋の店頭で立ち読みし切れない3日分くらいごとに再編集され、「本」になった。かくして、いまや我々は、16ページ13折=208ページで完結する8章立て程度以上のことを、導入や基礎から応用や総括まで、順序立ててしか理解できない。そのくせ、それらをいくら読んでも、そのつど、初期状態にリセット。だから、永遠に次の「本」を買うことになる。

こんなものを電子化したところで、それは一時代前の図書館のマイクロフィルムのようなもの。たしかに電子書籍は、これまでに出版された「本」というレガシーを紙媒体より簡便に読み出すことができるだろう。だが、なんで電子時代になってまで、1ページの1行目から書かれている「本」を、その順番通りに読まなきゃいけないのか。「本」では、言葉が一列に並んでいる。前の部分を読んでいないと、後の部分は理解できない。後の部分は、前の部分を読んでいることを前提に書かれている。途中からの飛び入りは許さないようになっている。それでいて、結末は、結局、リセットだ。

しかし、これは文字を行に並べて、紙をページ順に綴じたからであって、どの部分も直接に表示できる電子媒体では、読む順の決定権は、もはや書く側には無い。実際、すでに電子辞書では、ABC順は意味をなさない。派生語や関連語へピョンピョン跳んで行く。ゲームともなれば、もっとインタラクティヴに、読者側が内容そのものにまで関与することができる。これでは、書く方も、読む側が、自分の書いた前の方を読んでいるはずだ、読んでいるべきだ、などと、かってに決めつけることができない。だいいち、書いた順番など、どこにも痕跡すら無くなってしまう。むしろ、自分が書いた他の部分など、読み手はどこもなにも読んでいない、という前提で、各部分を、どこから読まれてもいいように書かなければならない。

こうなると、「本」という単位に言葉を綴じて、ある書き手の世界をまとめることの意味自体が怪しくなる。辞書と同様、その読み手がその全部を読むなどということは、もはや期待しようもない。おもしろそうなところを摘み食いして読み捨てる。だが、それって、まさにこのネットのことじゃないか。ここでは、1行目から最終行まで全部を読まなければわからない「本」など、電子化しても、まるでCD化した古典芸能のように陳腐だ。

純丘曜彰博士(大阪芸術大学芸術計画学科教授/元テレビ朝日報道局報道制作部『朝
まで生テレビ!』ブレーン)