「その通り、幹部公務員の懲戒は国民の希望である」-人事院総裁に応える。

北村 隆司

11月1日の産経新聞は、政府が人事院勧告を見送り、国家公務員の給与を平均7.8%削減する臨時特例法案を優先させたことについて「課長以上の職員には10%カットとなり懲戒処分の水準だ」と政府の対応を厳しく批判する共に「人事院勧告は憲法上の制度であり、実施しなければ憲法上の疑義が発生する」として、見送りは憲法違反だと主張した江利川人事院総裁とのインタビュー記事を大きく報道した。

先ず給与カットの水準だが、このカットが懲戒処分の水準だとしたら、やっと適正な公務員給与への第一歩を踏み出したと言うのが私の感想だ。

国民は、財務省の金融政策失敗に因を発したバブル崩壊の悲劇、改正建基法の施行で起された建設不況など、官僚の手で起された官製不況で、倒産や失業、減収は勿論、中には自殺に追い込まれるなど痛ましい犠牲を払って来た。

それに加え、法を守る筈の法務省にも冤罪事件の続発や違法捜査なども表面化し、国民の行政に対する信用は地に堕ちた観がある。国民にこれだけ多くの迷惑を掛けて来たキャリアーが大半を占める幹部公務員に、この程度の給与カットでは少なすぎると考えるのが寧ろ当然であろう。

問題は、公務員の不祥事が単発的もしくは個人の特異な性格によるものとは異なる、構造的なものが多発している事で、公務員のあり方を決めている人事院の廃止を真剣に考える時期に来ている。 

立派な公務員も多数居り、十羽ひとからげの賃下げ処分などは不公平だと言う議論があるとすれば、それはその通りである。然し、能力主義・実績主義を徹底する目的で設立された人事院が採用した制度は、職階制(2007年の国公法改正により職階制そのものは廃止されたが,慣行は依然として残されている)を中心とした年功序列の官僚制度で、実績による個人差を認めない現行制度がある以上、これも止むを得ない。

職階と年功を個人の能力に優先する官僚制度は、青春の意気に燃えて霞ヶ関を選んだ多くの優秀な若者から、徐々にその能力と判断力を奪い、出世を争う官僚にしてしまった。その点、現行の官僚制度の真の犠牲者は、国民だけでなく、有能であった筈の若き官僚でもある。

日本の公務員の過剰な厚遇は、多くの国際機関が「非能率行政」国家のトップクラスに日本を挙げている事実からも証明されている。行政、企業の効率性の向上が国家の競争力の向上に欠く事の出来ない条件だが、日本の場合、企業効率を遥かに下回る行政に携わる公務員の待遇が、民間を上回ってきた事も不公正なら、人事院と言う名目で、公務員が公務員の待遇を決めるお手盛り組織も腐敗の源泉である。
次に、人事院勧告の見送り違憲論に触れて見たい。

最高裁は、82年の人事院勧告見送りに対する訴訟で「危機的な財政状況を考えると、人勘見送りも合憲」だと言う判決を下した。この事実を知る江利川総裁は、東日本大震災や福島原発事故に遭遇して、当時以上の財政状況にある現在、政府が言い出す前に公務員給与の20%カットと定員の大幅削減を勧告して居れば、政府も間違いなく勧告を受け入れた筈で、勧告自体の不適正が見送りを生んだ原因である。江利川総裁が、人事院勧告は内容の如何を問わず尊重されるべきだというが超法規的な考えを持っているとすれば、自惚れもいい加減にすべきであろう。

公務員の労働基本権制限と引き換えに、人事院を設立し行政委員会としての独立性を与え、人事院規則の制定改廃や不利益処分審査の判定、給与に関する勧告など、超法規的、な権限を賦与した事は、憲法第41条や憲法73条4号に違反するとの論議が永い間存在したが、この論議は正しく、公務員に労働基本権を与え、早急に人事院の廃止に踏み切るべきである。