「曲学阿世」か、「世間知らず」か? ─「識者」の大阪市改革論を嘆く

北村 隆司

橋下大阪新市長は、地方自治法や地方公務員法の定めを引用して「職務上の命令に従う事と軽率な意見表明や行動を控える事」を職員に求めると共に、テレビで新市長の方針に批判的なコメントを流した職員に「反省文」を提出させたと言う。

公務員の政治的言動を厳しく制限する英米の制度に慣れた私には、この処分は穏便過ぎる様に思えたが、何らかの処分は当然である。


処が、この処分を「自由の圧迫」だと批判する“ガラパゴス有識者”やマスコミが多い事に驚いた。千葉大学元教授の新藤先生などは「公務員も、就業時間外や職場の外では自由な立場・人格が尊重されるというのが近代の常識だ」とのたまわった。

公権力の横暴から国民を守る事が民主主義の根幹と考える欧米では、「公権力の行使者」である公務員にどの程度の自由を許すべきかの論議は盛んだが、カメレオンでもあるまいし、「時間や場所」により、同じ身分の人間の自由と人格が変るなどと言う主張は、漫画の世界でもお目にかかった事がない。

建国の柱である言論の自由を、憲法の冒頭(修正第一条)で保障した米国でも、「公務員に政治的、党派的な発言の自由を与える事は、言論の自由と民主主義を脅かす」として、公務員の言論の自由を制限した最高裁判決が定着している。英国では更に厳しく、公務員が公務に関して上司を批判すると罷免される事も珍しくない。

以上の様に、成熟した民主国家では、公務員の言論の自由が制限されるのは当たり前で、言論の自由を享受したければ公務員を辞するのが先である。この点 「公務員も、就業時間外や職場の外では自由なのが近代の常識だ」とのたまわった新藤先生の方が、むしろ非常識だと言えよう。

行政学者の新藤先生がこの事を知らない訳はなく、先生は「曲学阿世」の典型かも知れない。

一方、維新の会が提案した「職員基本条例案」に反対した同志社大学の太田先生は、「公務員は民間にくらべ、目に見える成果を上げにくい。給料や人事制度は、職員が不満や不公平感を持たないよう、納得しやすい制度にする事が大事だ」と主張された。

太田先生のこの考えは、オランダを疲弊させた80年代の社会主義政策に似ている。

その頃のオランダでは、企業は解雇した従業員が自分の気に入った仕事を見つけるまで、給料の満額給付を義務付けられ、有給休暇も事実上自己申告で自由に取れた時代であった。ステークホールダーを無視したこの政策は、さすが永続きしなかったが、今の大阪市は当時のオランダに近い状態なのであろう。

公営であろうが私企業であろうが、ステークホールダーを忘れた内部中心主義経営は成り立たない時代になった今日、太田先生は職員より「納税者」が不満や不公平感を持たない制度を提案すべきであった。公務員が、英語の「Public Servant」、日本語の「公僕」であるのが本来の姿だとすれば尚更である。

民間にも、成果が見えにくい職場は管理部門をはじめ、山ほどある。だからこそ各企業は、見えない成果が見えてくる目標管理を導入したり、公正な目標を設定する為に「SCRAM」方式 (注1)などの手法を使って、客観的な評価の実現に努力しているのである。

キャノンの中興の租と言われた賀来龍三郎氏が執筆した「私の履歴書」を読むと、入社時の希望に反して経理部に配属された同氏は、処理した伝票の枚数や上司に訂正された伝票の数を毎日集計して、生産性や品質向上を計るなど、今で言う「仕事のゲーム化」を始めてから、「嫌いであったはずの経理の仕事が、楽しくて仕方なくなった」と述懐されている。

太田先生のご意見は的外れだが、組織学専攻と言う事なので「曲学阿世」と言うより「世間知らず」と受け取るべきかも知れない。

国民と公務員の権利義務や従業員の処遇のあり方は、今後も多いに論議すべきだが、ここに挙げたお二人の先生方の意見が、日本を代表する「有識者」の意見だとしたら、何とも情けない。

注1 :SCRAM とは: Specific ( 具体的) Challenging (挑戦的)  Realistic (実現可能) Accountable (責任) Measurable (計測可能)の頭文字をとった目標設定方式のアクロニム。

北村隆司

────────────────────────────────────