音楽賞と日本経済

小幡 績

ある大衆音楽賞の授賞式の様子をテレビで見た。

AKB48が大賞を受賞した。あまりこのようなことに関心の無い人たちが驚いてしまうほど、彼女たちは号泣していた。

あれは決してうそ泣きではない。

**

そもそもこのような賞は何のためにあるのだろうか。

それは大賞受賞者の涙を見るためにある。

なぜその涙に価値があるのか。

それは本物の涙だからである。

本物の涙とは何か。

それは全力を挙げて取りに行った結果の涙のことである。

全力とは何か。

***

このような賞を論じるときに、必ず問題となるのは、歌手の実力以外のところで賞が決まるところにある。業界通ぶる人々は、事務所の話をしたり、様々な癒着を指摘したりする。そんなものは関係ない。涙が本物であることが重要なのである。

この議論のおかしいところはどこか。何がかみ合っていないのか。背後にある論理は何だろうか。そんな音楽賞のくだらない議論をするな、と批判するのはまだ早い。

なぜなら、この議論で日本経済の未来が語れるからである。


このような音楽賞は、出来レースだとか、事務所の力によるとか、そういう批判は無意味だ。裏金でも事務所同士の戦いでも、それがみんなにわかっていて、フェアに戦われるなら、問題ない。みんなが歌手の歌のうまさで決まると思っているときに、1社だけが影響力を使って、受賞するのであれば問題であるが、歌唱力の賞でなく、事務所同士の総力戦と考えれば、何の問題も無い。競争が平等な条件で行われており、我々がそれを知っているのであれば問題はない。

この考えのどこが問題か?

もし、賞が歌手の実力でなく、事務所の力などにより影響を受けたことが問題だと考えるならば、それは、どこかに実力、というファンダメンタルズが存在する、と考えていることになる。

そうすると、ファンダメンタルズとは何か?という問題になる。歌の実力だとすると、歌の実力とは何で、その実力とは、music industryにおいてどのような意味を持つのか、という問題が重要になる。

結局、どれだけ人気が出て、どれだけ売れ、どれだけのトータルで収益が得られるか、というのがmusicianあるいはartistあるいはタレントの価値だとすると、歌の実力とは、重要ではあるが、多くあるうちの一つの評価軸に過ぎない。しかも、AKBを考えるときに重要なのは、歌が上手くないというのはプラスであることに注意しなければならない。歌がそれほど上手くないグループが一生懸命頑張っている、それはプロ野球よりも高校野球が面白いと思う人々が多いのと同じで、実はファン層が広い。真に音楽性を追求する人々はクラシックや別のカテゴリーにいるから(もちろん複数の人格を有するファンも多い。クラシックもAKBも好き。それらは別物としてとらえているファン達。)、それは別として考えた方がいい。

もっともクラシックでさえもヴィジュアルなしには人気が出ず、ヴィジュアルの悪い音楽家は、著名な師に着くのが難しいなど、スポンサーなどのサポートがつきにくい。もちろんフィギュアスケートもそうだ。

つまり、クラシックですら、いわんやアイドルポップスにおいて、歌の巧拙は一つの要素に過ぎず、人気がすべてと言うことになる。だから、人気があるものが勝ちなのである。

そうなると、真の人気と 作られた人気を区別したい、ということになるだろう。とりわけAKBに関しては、総選挙に対する賛否が大きく分かれており(というか、ファン以外では批判が強いが。私自身は総選挙は極めて合理的なものと考えている)、真の人気とは何か、という問題に答える必要がある。

すべての人気は作られている。アイドルに限らず、すべての製品はマーケティングをされている。無意識のマーケティングもある。自然発生的な口コミも、その口コミが偶然にせよ何にせよ、人気を作っているわけだから、同じ製品でも口コミが広まらなかったケースを考えれば、真の人気と作られた人気という区分はおかしい。これは株価をファンダメンタルズとそれ以外に分けることがおかしいことと同様である。

つまり、決まった土俵の上で、総合力勝負ということで人気競争をするのであれば、どんな手段をとっても、その賞を取ったものが勝ちであるのは、どんな製品でも売れて利益が上がったものが勝ちであるのと同じことなのである。健康食品と医薬品で後者が偉いということはないのである。

この場合の唯一の「真の実力」に関する問題点は、持続可能性、という問題だろう。

実力があって売れる製品は、長く売れ続け、長期的には大きな利益をもたらす。また、次々と新製品、まねをする製品が出てきても、その製品に現れている実力は、次の改良型製品を生み出し、それも市場を席巻する可能性が高いから、やはり、最後は実力、真の実力のある製品が重要だ、という議論である。

この場合は、歴史的に淘汰されるかどうか、長期的に儲かるかどうか、という点がポイントである。

しかし、例えば、オーディオの世界においては、銘品と呼ばれるものほど長くは続かず、製造中止、メーカー倒産となり、マニアの間では状態の良い中古が値上がりを続ける、ということがある。それはマニアの世界に限らず、メルセデスであればW124が、ディスプレイであれば、パイオニアのクロが、実力とは逆に市場から消えていき、どうでもよい製品群が残った。

それも含めて真の実力は決まるし、品質の良いもの、本当に良いものが分かる人にしか選ばれない、ということは真の実力のうちの一つの軸に過ぎない、ということを示している。

AKBに関して言えば、真の実力、というワードに関する問題は、彼女たちの人気がどこまで持続するか、あるいは世界的に人気が出るかどうか(AKBスタイルのフォーマットを含めて)ということが問題になる。

つまり、人気を得て、それを利益につなげるという意味において、長期の持続性あるいは幅の広い市場での適用可能性が問われるということだ。

賞に関して言えば、それが問題となるのは、事務所同士の戦いとなったときに、この戦いに参戦しないグループが多くなることが問題で、真の音楽産業が、賞の外で育つようになってしまうことだ。賞が大事か、ビルボードが大事か、という問題で、ランキングは結果だから、それを重視するのは王道だが、短期的なファンの人気が長期的なその人気の持続性、そのようなアイドルを生み続ける産業の長期の持続可能性を保証するものでないから(むしろ逆のことが多い)、消費者に頼らず、作り手側が何らかの目利きを長期的に行う必要がある。

実際、音楽賞のマーケットはやや力を失ってしまったが、エグザイル、AKBという実際に売れるアイドルが登場したことで、また新しい世界が開かれる可能性はある。

日本の一般の産業も同じことで、ガラパゴスというのは、音楽賞と同じことで、スマートフォンにガラケーが負けてしまうのは、音楽賞関連の音楽の衰退と類似している。狭い世界で激烈な競争をすると、そのマーケットが価値も規模もあるときは好いが、長期のその市場の規模、活力が停滞したときには、他への適用可能性が低下してしまっていることが多いことから、長期的な持続可能性が低い産業となる。ただし、ガラパゴスが途方もない価値を持つ可能性もあり、だからこそガラパゴスであるのだが、そこの目利き、売り方、人気の出し方は、今後の経営理論、ビジネス理論的課題であろう。

ちなみに、この問題が自動的に解決する産業が一つある。それはサラブレッド産業である。

目先、レースでごまかしが利いても、厩舎や騎手との関係が深い馬主、生産者が短期に勝っても、実力でない場合には、彼らの所有する種馬は強い馬を生み出さないから、結局淘汰されていく。

サラブレッドにおける血のようなメカニズムがビジネスにもあるはずで、それはブランドではないのだが、何らかの歴史的伝承性を持ったものが存在するはずだ。

それを見つけるのが、私の仕事だ。