リスクのモノサシ―安全・安心生活はありうるか (NHKブックス)
著者:中谷内 一也
販売元:日本放送出版協会
(2006-07)
販売元:Amazon.co.jp
★★★★☆
原発事故は、日本社会が知的に成熟しているかどうかの試金石である。事故の直後には「福島で40万人以上が死ぬ」といったデマを流すニセ科学者が出現し、「放射能で子供が鼻血を出した」という母親の被害妄想を新聞が報道するといった条件反射もやむをえないが、事故から10ヶ月たった今も「放射能の影響はわからないから、原発はすべて止めてしまうべきだ」という幼児的な反応が続いているのは困ったものだ。
本書も指摘するように、こういう反応は心理学で昔から知られており、人々のリスク認知を左右するのは、確率的な期待値ではなく恐ろしさと未知性である。タバコや交通事故のような大きなリスクは、よく知っているのであまり恐くないが、BSEや原発のような小さなリスクは知らないので恐い。メディアも読者の恐怖に迎合するので、毎年10万人以上が死亡するタバコのリスクより日本全体で0.9人が死亡するに過ぎないBSEのほうが大きなニュースになり、莫大な国費が投入され、それが人々の確信を強めて恐怖をさらにかき立てる・・・という悪循環が起こる。
本書は、こうした混乱を避けるために、図のようなリスクのモノサシを社会的に共有することを提案する。このモノサシによれば、50年間で2人が死亡した原子力施設の年間死亡率は、10万人あたり0.00004人。BSEよりさらに少ない。
もちろん確率的な現象を数値で表現することには限界がある。落雷の確率がいくら低くても、あなたがそれに遭遇する可能性は否定できないし、放射線にも未知のリスクがある。だからといって「わからないから原発はすべて危険だ」というのは、著者によれば「絶対に安全とはいえないという、リスク概念を使うなら自明のことを声高に主張し、(正義感からか)国民の不安を煽る」ものだ。
他方、国や電力会社は「安全だ」と主張し、いったんどちらかに態度を決めた者が他方の立場に変わることはほとんどない。これはあるかないかという二項対立で考えることが心理的に容易だからである。リスクがゼロということはありえないので、便益とのトレードオフを考えてどれぐらいリスクを負担すべきかを考えなければならないのだ。
こういう状況では、少なくとも政府やメディアがリスクを定量的に理解し、国民がそのモノサシを共有するためのリスク・コミュニケーションが重要である。このときも一方的に「安全だ」と宣伝するのではなく、人々が何を誤解しているのかを理解し、彼らの感情に訴えるマーケティングが必要だろう。