反橋下市長の人たちがなぜ共感されず非力なのか

大西 宏

報道ステーション・サンデーで、橋下市長と、『橋下主義(ハシズム)を許すな!』を共著した北海道大学の山口二郎教授と直接対決させていました。番組は、橋下市長の一方的なペースとなり、山口教授が言葉を失う展開となりましたが、そのことがツイッターなどでも話題になっていました。
【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
皮肉なことに、対決どころか、橋下市長の全国の視聴者にむけた格好のプレゼンテーションの場になっていたように感じます。しかしなぜ反橋下キャンペーンを行った人たちは共感をえることもできず、また非力なのか、個別の問題を取り上げ批判するしかできないのかに関心を持ってしまいました


反橋下キャンペーンを行なった人たちの主張はさまざまでしょうが、大きくまとめると、橋下市長のキャラクターや振る舞いへの感情的反発、教育を聖域とし政治が介入してくることへの警戒感、とくに教育に競争を持ち込むことへの反発、組合へのシンパシー、体制や仕組みの構造的な変革に対する不安、またそれによって既得権益を失うリスクへの恐れが柱になっているのだと思います。

山口教授たちが決定的に間違ったのは、橋下市長批判をすることはいいとしても、政治に強く関与してしまい、本来の時代を客観的に見ようとするポジションをあっさり放棄してしまったことでした。選挙のさなかに「ファシズム」を意図的に連想させる「ハシズム」を使ったキャンペーンに加担してしまったのです。
ほんとうにファシズムなのだろうか、その批判と現実のギャップを多くの人が感じたのだと思います。ナチズムが広がった原動力としては、ナチスの親衛隊の威圧、反対者を圧殺する装置の存在が欠かせません。日本ではそれを特高警察や憲兵が担ったわけですが、そのような民衆、企業家にたいする抑圧は現実には存在しません。

しかも、結果として、既成政党や職員組合、また日教組、さらに既得権益を守ろうとした人たちから政治利用された、あるいはすすんで協力してしまったのです。多くの人たちが矛盾を感じてノーをつきつけた古い殻、その矛盾を温存しようとする古い体制側にまわってしまったのです。そんな主張が共感を呼ぶわけがありません。

実際、行政に限らず、企業でも企業が変わっていこうとすると、さまざまなしがらみ、組織の慣性と闘い、社内の体質や組織を変革していくリーダーが必要になってきます。強いリーダーが存在することがファシズムだと感じるか、それぐらいエネルギッシュになってくれないと何も変らないと感じるかで違いがでたのでしょう。
しかし、橋下市長が指摘していたように、批判する側は、変革への具体的なビジョンを示さず、言葉を弄んで批判だけしているように感じてしまうのです。結局は古い殻を改善はしても壊すなという主張にしか聞こえてこないのです。

第二は、山口教授の発言に、橋下市長も反発していましたが、府民や市民を信頼していない、教育者のほうが正しく、それに府民や市民がかかわることは間違いだとするエリート主義をも感じさせるものがあったということです。しかも、教育に関するさまざまな考え方はあってもいいのですが、なにか浮世離れを感じてしまうのです。
かつての高度成長期には、赤信号もみんなで渡れば怖くないという時代もありました。しかし、その後に経済が成熟してくると、実際には社会にでれば、過去の時代とは比べものにならないくらいの競争が起こっています。さらに将来は、現代よりもさらに国境を超えた人材競争が起こってくることはもう止めようのない現実です。

そんな競争環境のなかでたくましく生きていく心の強さや知恵が必要になってきます。競争環境への耐性をもつためには、それぞれ、自分の強みや適正に気づき、個性を磨き、個人のアイデンティティを持つことが必要になってきますが、それは競争環境のなかでひとりひとりが発見していくものです。そんな機会を今の教育が子供達に与えるとはとうてい思えません。学校教育への不満は潜在的に広がっている現実をもっと感じてもらいたいのです。

さらに、現実を直視しない、現実、現場を調査しないで、断片だけ取り上げ批判するということの非力さです。報道ステーション・サンデーでは、山口教授は気の毒なぐらいそれを見せてしまいました。信じられないことで、主義主張が先行し、それが思い込みとなって、現実とは異なる発言をしてしまったことです。また、それがこれまでの古い体制や既得権益を容認することになってしまいます。

たとえば、行政を広域で展開することになぜ反対するのかが現地にいると理解できません。大阪市と大阪府は、いやもっと京都や阪神間を含めると兵庫県まで、実際の経済や社会は、広域化しているのが現実です。たとえば、モノづくりの拠点は東大阪市や守口市、門真市に集積し、コンビナートなどは堺市に集積しています。都市機能として、大学や研究機関の存在も欠かせませんが、実際には大阪市内はそれらが薄く、大阪府下、また県外に広がっています。IT企業は、大阪市内である新大阪あたりから吹田市の江坂地域にシームレスに集積しています。産業政策にしても、実際にはすくなくとも大阪府の広域でやらないと実効性が薄いのですが、現実は大阪市は大阪市、大阪府は大阪府、近郊都市は近郊都市でやることがバラバラで連携がほとんどありません。大阪市と大阪府の境界など、実際の生活にしても、ビジネスにしても意味が無いのですが、行政だけが分かれているのです。なぜ府と市で一体とする行政組織に変えてはいけないのかに対する心に響く反論がありません。結局は他人ごとなのです。

提案したいのは、感情で判断すること、思想で現実の課題を覆い隠すことはやめようということです。より創造的に考える事です。事実にもとづいて、なにが課題で、なにを解決すればいいのかを、住民の立場、そこで経済活動を行なっている企業の立場、利益にたって判断していけばいいのだと思います。
すべての人が満足する、すべての人が納得する政策は現実にはなかなかありません。職員や教員の評価制度を導入し、教育の質を上げようという動きは、それまで人事まで介入していた組合幹部の利権が失われます。しかし、逆に職員や教員は組合幹部、組合組織からの圧力からは逃れることができます。政策としてどちらを取るのかの選択です。しかし現実には、もっとも影響をうける子どもや両親よりは、声の大きな組織の利益が優先されてきます。

経済や社会が成熟し複雑化してくると、ますます現実から課題を抽出し、優先順位を決め、解決していくダイナミズムが重要になってきます。もっと建設的な批判、もっと人びとの共感を呼ぶ批判が、おそらく橋下市長や維新の会を鍛え、磨いていくのでしょう。

作家の渡辺淳一さんも橋下さんにやらせてみたいと語り、またツイッターで、ソフトバンクの孫さんが橋下市長にエールを送っていらっしゃいましたが、潜在力がありながら、地盤沈下してしまった大阪を立て直すことは、東京というシングル・コアしか持たない、したがって多様性に限界のある日本が複数のコアを持つ点で、日本にとっても重要であり、また制度疲労を起こしてしまった日本の政治や行政を変革する力となってくると感じます。

いきなり「お前はファシズムだ」という乱暴な決め付け、誹謗中傷をするのではなく、ぜひとも大阪にとって、どのようなことが大阪の活力再生になるのかの知恵づくりに参加するなり、支援をしていただければと願うばかりです。