日本化した外資系投資銀行

藤沢 数希

最近のマクロ経済学のホットなトピックはアメリカと欧州経済の日本化(japanization)である。1980年代の土地バブルがはじけてから、日本経済は銀行の不良債権処理に苦しみ、経済を支えるために日銀はひたすら金利を下げていった。金利がゼロに達しても経済は上向かず、重苦しいデフレが進行した。この間、経済成長が止まってしまった。2007年~2009年の世界同時金融危機、そしてその後のユーロ危機を経て、欧米経済は日本の失われた10年を再現しつつある。いつか着た道、である。しかし、これから書くことは、この日本化ではない。外資系投資銀行の雇用慣習が日本化したのである。日本的な終身雇用の慣習とは対極の位置にあると思われる外資系投資銀行がなぜ日本化したのか。その鍵はボーナスの分割払いと、基本給の引き上げにある。


経済学者や監督当局は、金融危機を引き起こしたひとつの理由はトレーダーのインセンティブ構造にあったと考えた。上手く儲ければ多額のボーナスを受け取り(概ね利益の5~10%程度がかつての相場であった)、失敗しても最悪の場合でも首になるだけというトレーダーの報酬体系はコール・オプションそのものである。ボラティリティを上げれば上げるほどオプションの価値は高まるので、リスクは取れば取るほどいいことになる。これが過剰なリスクテイクを誘発したといわれた。

そこで経済学者や監督当局は「トレーダーのインセンティブを銀行の長期的な利益と一致させる」ことを要請した。高名な学者がこのようなことを言うと、何か大変立派なことに思えるが、金融理論というのは実際のインプリメンテーションの段階になると、ほとんどの場合おどろくほどしょぼいものとなる。大体においてエクセルのスプレッド・シート上で足し算や引き算、よほど高級なもので割り算ぐらいに落ち着く。2008年頃、監督当局のご機嫌を取るために、全ての外資系投資銀行が横並びでやったことは、ボーナスを分割払いにしたことだ。

例えば、今年のあなたのボーナスが2500万円だとしよう。それを5分割すると、ひとつのスライスは500万円になる。そう、今年のあなたのボーナスは2500万円だけど、あなたが受け取れるのはたったの500万円なのだ。そして来年も500万円、次の年も500万円、…5年後に500万円受け取れる。実際の所、来年以降のスライスは自社の株価に連動するように設計されていることが多い。「トレーダーのインセンティブを銀行の長期的な利益と一致させる」という要請は、最終的にこのようなしょぼいものとなった。ボーナスを分割払いにするとなぜトレーダーが銀行の長期的な利益を考えようになるのか、筆者はまったく理解に苦しむ。

もう一つの変化は基本給の引き上げである。2008年頃に、アメリカやイギリスで、金融機関の経営者や従業員に対するバッシングが激しくなっていた。そして政治家は、金融機関の従業員に支払われるボーナスに特別な税金を課そうとしたのである。リーマンが倒産しても、あの頃はまだバブルの余韻があって、自信を失っていなかった生き残った外資系投資銀行の経営者は、やはり全社横並びでボーナスと基本給の比率を変えたのである。すなわちボーナスを減らして、その分を基本給に回したのだ。これでボーナス課税を回避しようとした。上に政策あれば、下に対策あり、である。これによって中堅トレーダーの以前の基本給は1200万円~1700万円程度であったが、一気に基本給が1700万円~2500万円程度に上がった。基本給というのは固定費で、多くの国の法律で下げることが困難な性質を持つ。

以上のふたつの変化は、業界のカルチャーを大きく変えた。ボーナスの分割払いが、2008年、2009年と続くと、例えば両年に2500万円ずつのボーナスを受け取ったトレーダーは、2009年には500万円のスライス3つ分で、総額5000万円の内の1500万円しか受け取れていないことになる。ちなみにまだ支払われていない分割払いされるボーナスは、その性質上、自らの意思で会社を辞めると消失する条件が設定されている。このトレーダーは、会社にいさえすれば残りの3500万円を自動的に受け取る権利を持っていることになる。実はこの仕組みが、ヘッドハンティング会社を窮地に陥れた。トレーダーはとにかく会社に残ろうとするし(未払いのボーナスを取り返さなければいけない)、このトレーダーを引き抜くには通常の条件にプラスして3500万円も余分に保証しなければいけないことになる。よって、外資系投資銀行間のジョブ・マーケットの流動性が著しく低下した。ヘッドハンターは、他社に移籍させると、基本給の3ヶ月分ほど(基本給が2000万円だと500万円)を抜く。1年で20人も動かせば1億円も売り上げができるので、バブルの頃はトレーダーより稼いでいるヘッドハンターはごろごろいた。こうしたヘッドハンターは、ボーナスの分割払いによって廃業に追い込まれていった。

基本給の引き上げと、過去のボーナスのスライスが毎年毎年重なりあって支払われる状況は、伝統的な日本企業と同様の年功賃金そのものになった(例えば、2011年の給料は、ボーナスがゼロでも、2008年、2009年、2010年のボーナスのスライスが支払われる。2012年はスライスがさらにもうひとつ増える)。また、これは会社から見れば契約上必ず支払わなければいけないもので、以前の薄い基本給と変動幅の大きいボーナスという組み合わせの時と比べて、人件費を会社の業績に合わせて変動させる自由を大幅に奪い取り、経営を非常に不安定なものとした。

こうした過去に約束した報酬の支払いのために、新人の報酬水準は低いまま据え置かれることになった。これはまさに伝統的な日本の会社と全く同じ構造である。そして現在のように外資系投資銀行を取り巻く経済環境がますます厳しくなる中、耐え切れなくなり苦し紛れのリストラを断行せざるを得なくなったのだ。高名な経済学者が導入する規制というのは、多くの場合、思いがけない副作用をもたらし、往々にして本来の目的をかき消してしまう。「トレーダーのインセンティブを銀行の長期的な利益と一致させる」という高尚な理念が、このような結果になったことは大変興味深い。今や、外資系投資銀行業界は、市場の失敗と政府の失敗の宝庫となっているのだ。