橋下vs山口論争について――現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心こそ解くべき(1/3)

渡邉 斉己

標記の論争の観戦コメントで盛り上がっているこの機会に、日本の教育委員会制度の今後のあり方について、具体的な改善策を提起をしておきたいと思います。私は、先日アゴラに「橋下徹大阪市長への提言――府教育基本条例案は早急に撤回し教育委員会制度の改革を目指すべき1,2」と題する記事を書きました。


簡単におさらいしておくと、日本における教育委員会制度は、アメリカがその占領政策の一環として導入したものであるということ。当時アメリカは、戦前の日本の軍国主義は日本の中央集権的な教育制度によりもたらされた、と考えていましたので、日本の学校教育を内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を、地域住民の代表により構成される合議制の教育委員会の下に置こうとしました。

その時モデルとなったものが、アメリカの教育委員会制度でした。実はアメリカの教育委員会は開拓時代の名残で、行政組織もない奥地に入植した人々が、子供たちを教育するために自治的に組織したものでした。そのため、教育委員会は行政区とは別の組織になり、それに独自の財政措置がなされるようになりました。といっても、都市化につれて学区と行政区画が一致するようになり、次第に教育行財政も一般行財政に従属するようになったといいます。

つまり、日本の教育委員会制度は、こうしたアメリカ軍による占領統治の思惑と、その時導入された教育委員会制度がアメリカのそれをモデルとしたことで生まれたものなのです。そのため、教育行政の地方分権と教育行財政の一般行財政からの独立の二つの理念が、あたかも民主的な教育行政改革理念であるかのように見なされたのです。しかし、教育行政はともかく教育財政を一般行政から分離することは日本では無理で、そのため前回紹介したように、昭和31年の教育委員会制度の抜本改革=地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」と称す)の制定となったのです。

本当なら、この時すでに日本は独立を回復していたのですから、この占領時代の遺制である教育委員会制度は廃止して、日本の教育文化の伝統によりマッチした学校管理制度を確立すべきだったのです。ところが、この頃は、丁度、東西冷戦下のイデオロギー対立で国論が二分しており、とりわけ教育界は左翼思想で固まっていましたから、政府は、この教育委員会制度を逆利用して、日教組勢力の押さえ込もうとしたのです。

それ以降、ソビエト帝国が崩壊し東西のイデオロギー対立がなくなるまで、地方における教育委員会の役割は、ほとんど日教組対策に終始した観がありました。つまり、この間の教育行政とは日教組対策に他ならなかったのです。この間、教育委員会のやったことは、新規採用教職員を日教組に入らせないこと。校長・教頭への昇任の機会をとらえて組合員を日教組から離脱させること・・・。その有様は、あたかもキリシタン弾圧時代の「踏み絵」を思わせるものがありました。

一方、日教組の方は、そうした教育委員会――小中学校は市町村教育委員会、高校等は県教育委員会――に対して団体交渉で対抗しました。ただ、教育委員会といっても市町村教育委員会の事務局は、役場の職員で構成されているため教育のことはほとんど分からず、次第に職員団体との交渉を忌避するようになりました。その結果、教育行政権は教職員の任命権を持つ都道府県教育委員会に集中するようになり、そこが、組合(県単位に組織される)と教育委員会とのせめぎ合いのポイントになりました。

この間、教条的な組織運営を行ったことで、当局による切り崩し工作に抗し得なかった県教組は次第に組織率を減らし地方教育行政に対する影響力をなくしていきました。一方、臨機応変に当局との政治的取引を行うことで組織率を維持し、教職員人事に対しても隠然たる影響力を保持し得た県教組は、教育委員会事務局をも抱き込み、地方教育行政運営全般に対する影響力を行使するようになりました(このことは左右を問わず言える)。現在民主党の幹事長を務める輿石氏の出身母体である山梨県教組はその典型ですね。

話を元に戻しますが、上述したように、いわゆる55年体制が終わって東西のイデオロギー対立がなくなると、文科省vs日教組という対立図式も次第に解消に向かいました。その結果、その後の教育改革論議の中でようやく教育委員会の形骸化の問題が取り上げられるようになったのです。ところが、丁度この頃、教育界にとって新たな問題として浮上したのが、臨教審による「教育の自由化論」の提起と、大蔵省による教育費国庫負担削減あるいはその適用除外の問題でした。

このため、教育界は「教育の自由化論」を公教育の解体と見てこれに反対すると共に、教育費国庫負担削減及びその適用除外に対しても、一致して反対するようになりました。こうして、従来、対立抗争を繰り返してきた文部省・教育委員会と日教組、その他の教職員団体が一致して共闘関係を構築するようになったのです。このため、教育委員会制度はその形骸化が明らかであるにもかかわらず、これを教育界の自律性を守る防波堤として維持しようとする心理が、関係団体に働くようになったのです。

こうした情況の中で、「教育委員会制度の形骸化」をめぐって行われることになった論争が「橋下vs山口」論争でした。ではまず、この論争の前段にある橋下氏の大阪都構想がどのような大阪の現状認識の中から生まれてきたのかを見てみたいと思います。これは、大阪に居住する大西宏氏の次のような意見で総括できるのではないかと思います。(参照「反橋下市長の人たちがなぜ共感されず非力なのか」)

「大阪市と大阪府は、いやもっと京都や阪神間を含めると兵庫県まで、実際の経済や社会は、広域化しているのが現実です。たとえば、モノづくりの拠点は東大阪市や守口市、門真市に集積し、コンビナートなどは堺市に集積しています。都市機能として、大学や研究機関の存在も欠かせませんが、実際には大阪市内はそれらが薄く、大阪府下、また県外に広がっています。IT企業は、大阪市内である新大阪あたりから吹田市の江坂地域にシームレスに集積しています。産業政策にしても、実際にはすくなくとも大阪府の広域でやらないと実効性が薄いのですが、現実は大阪市は大阪市、大阪府は大阪府、近郊都市は近郊都市でやることがバラバラで連携がほとんどありません。大阪市と大阪府の境界など、実際の生活にしても、ビジネスにしても意味が無いのですが、行政だけが分かれているのです。なぜ府と市で一体とする行政組織に変えてはいけないのかに対する心に響く反論がありません。結局は他人ごとなのです。」

私は、教育委員会制度について私見を申し述べますが、先ほど申しましたように、教育委員会制度が形骸化していることは、すでに、教育関係者の間で自明のことなのです。なのになぜこの組織を維持しようとするのか。なぜ、もともと対立していたはずの文部省や日教組、その他の教職員団体も一致してこれを守ろうとしているのか。

それは、本当に日本の教育の事を思ってやっているのか。あるいは、それは彼等が自らの既得権を守るために、自らの思想信条を度外視して、連携したと言うだけの話ではないのか。こうした疑問が、橋下氏から提起されたのも、けだし当然と言わなければなりません。この場合、橋下氏に特別反日教組的イデオロギーがあった、というわけではなく、池田氏も指摘する通り、むしろ、この形骸化した組織を既得権擁護のために温存しようとする体質そのものを、氏は攻撃対象としているのです。(「日の丸・君が代」論争など私はイデオロギー論争に値しないと思っています)

そこで、橋下VS山口論争についてですが、山口教授は不用意なことにこの形骸化した教育委員会制を守ろうとしました。いや、守ること自体は悪くはないのですが、氏は、先に紹介したような教育委員会の形骸化の意味を十分理解しておらず、従って、それを改善するための具体的方策を何も持っていなかったらしい?ということです。これでは、その形骸化を知事職を通して知り、それを長の権限を強化することで改善しようとしている橋下氏に対抗できるはずがありません。

もし、この時、山口氏が、形骸化した教育委員会組織の機能を回復させるための具体的プランを持っていたなら、それを基に、橋下氏の「教育基本条例案」を批判することも出来たでしょう。この点、橋下氏は、争点が「教育基本条例案」に移ることをうまく避け、それを教育委員会制の形骸化の問題に収斂させることで、山口氏を現状維持派に押し込めることに成功しました。その結果、「橋本市長が山口二郎教授をフルボッコ」といったようなワンサイドゲームの印象を視聴者に与えたのです。