「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(3/5)

渡邉 斉己

(つづき)
だが、この記事は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」とは、競争区間も人数もゲームのルールも違っている。ベンダサンは、本多氏がこの記事を本多版「百人斬り」が事実である証拠として持ち出したことに対して次のように言った。「事実」と「語られた事実」は別である。我々は「語られた事実」しか知り得ない。従って、「事実」に肉薄するためには、「語られた事実」をなるべく多く集めて、その相互の矛盾から事実に迫るしかない。ところが本多氏は、この矛盾に満ちた二つの「語られた事実」をそのまま「事実」としていると。


○ なお、近代戦においては、銃や機関銃で武装している敵に、日本刀で切り込むようなことはできない。そのため、本多版「百人斬り競争」では、相手が兵士ではなく中国人となっている。つまり、兵士を相手とした「武勇伝」のはずが、住民・捕虜を対象とした「殺人ゲーム」になっているのである。そこで浅海版の「百人斬り競争」を見てみると、二少尉がその部下と共に敵陣に日本刀で切り込んだようになっているが、敵の武器については何も書かれていない。つまり、それを書くと、銃や機関銃を持った敵に日本刀で切り込んだことになりフィクションであることがばれるので、あえて敵の武器を隠したのである。

○ 山本はこのような分析を経て、この「百人斬り競争」の記事は、記者がで創作したのではないかと考えるようになった。あるいは、この記者は、両少尉の話を信じただけ、つまり彼等の職務が砲兵や副官であることを知らないままにこの記事を書いたのではないかとも考えた。しかし、これについては、佐藤振寿記者の次の証言によって、浅海記者は、「野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長」であることを知っていたことが明らかになった。

佐藤記者が常州に着いた時、「浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んできた」そこで「私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた」「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。・・・(そこで)”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。」(『週刊新潮』昭和47年7月29日号)*この時、佐藤振寿記者は、こんなばかげた話はありえないと思い信用しなかったという。

○ つまり、浅海記者は両少尉の職務を知っていたが、それが紙面に出ては「百人斬り競争」の真実味がなくなるので、両少尉の本当の職務を隠し、あたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのようにしてこの記事を作成したのである。こうした記事作成上の作為は浅海記者にしかできない。つまりこの記事は、浅海記者が単に両少尉の話を聞いたまま記事にしたのではなく、まず浅海記者自身に「百人斬り競争」武勇談の構想があり、それに協力してくれる役者=兵士を探し、つまり「ヤラセ」によってこの記事は作成されたのである。

○ ここに至って山本は、次のような疑問に行き当たった。自分はこれだけの資料を得て、しかも自分がかって砲兵であり、また副官の職も経験したので、彼等の戦場心理も理解でき、それで、ようやく浅海記者の記事がフィクションであることを見抜くことが出来た。しかし、なぜベンダサンはこれらがない中で、この記事をフィクションと断定できたのかと。そこで、ベンダサンに問い合わせをした。暫くして返事が返ってきたが、それは次のようなものであった。

○ この記事は戦場で100人の敵兵をどちらが先に殺すかを競う競技である。競争には必ず審判と勝敗を判定するための基準となるルールが必要である。従って、この競争を戦場でやるためには、戦闘中、審判者が両少尉につきそって走りつつ、何人殺したかを数えなければならない。そして、一方が100人に達した時ストップをかけ、それを相手に知らせ戦闘を中止しなければならない。

しかし、そのような事は戦場では不可能である。記者はこのことに第一報を送った後に気がついた。そこで、競技のルールを、数を限定して時間を争う競技から、時間を限定して数を争う競技に変更する必要に迫られた。そこで、これをできるだけ他に覚られない方法で行うため、第四報(山本は四報あった「百人斬り競争」の記事の中の第二、三報を飛ばしてこれを第二報としている)にある10日の次の会話を両少尉に”ヤラセ”た(山本はこれは浅海記者の創作としている)。

野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。

もし、この競争が事実であれば、これはあくまで時間を競う競技だから、野田少尉は向井少尉に、まず100人に達した時間を聞くはずである。しかし、ここでは数を聞いている(と言うことは競争のルールが判っていない?)。また、その後の会話では「いづれが先に百人斬ったかこれは不問」といっている。これは、競技のルールを時間を競う競技から数を競う競技に転換すると同時に、それまでの時間を争うルールを「これは不問とする」という言葉で巧妙にキャンセルしたということである。こんな芸当が戦闘中の兵士に出来るわけがない。

つまり、この「百人斬り競争」は、まず戦場ではあり得ないルールを設定していることからしてフィクション臭いが、以上説明したようなゲーム途中におけるルールの変更を、出来るだけ人に気づかれないように行っていることから見ても、これは誰かが作為的に行ったこととしか考えられず、それが出来るのは浅海記者だけであるから、この「百人斬り競争」の記事は、記者によって創作されたものと断定したのである。

○ これがベンダサンの山本に対する返事だった。(このあたり、ベンダサンは山本との通説が一般的になっている現在、奇妙な感じがしますが、ここでは触れません。)山本は、このような見方ができることに全く気がつかず、ユダヤ人にはこんな論理的な見方が出来るのかと驚いた。そういえば、中国人が語った本多版「百人斬り競争」にも、浅海版にあるような論理的矛盾が見られず、中国人は日本人よりも論理的なのではないかと言っている。

(以下山本の見解も交えた渡邉の見解)
*参照「百人斬り競争」資料
浅海記者が書いた「百人斬り競争」の記事の中で裁判所が問題としたのは、両少尉の会話の内「自白」と見なされた部分である。山本はこれを10日の両少尉の会話のみとしているが、常州での会話も「自白」と見なされ得る。従って、先に紹介した「上訴申弁書」には、「貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その「自白」が事実と符合しないのであるから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできない」旨の申し立てがなされている。

また、戦闘継続中に職務も指揮系統も違う両少尉が10日、11日と2日続けて記者会見に応ずるというのもおかしい。実際の会見は、鈴木二郎記者の証言から11日と思われるが、この日に、上記のルール変更の会話を鈴木記者の前で両少尉にさせることは困難だから、これを10日のこととして、上記の両少尉の会話を創作したのであろう。この作為の跡は「十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」という、未来のことを過去形で語った叙述にも見ることができる。

また、11日の会話には、向井少尉の鉄兜の唐竹割りや、紫金山残敵あぶり出しの会話がでてくるが、山本は、鉄兜などという言葉は軍では使わないし、また、紫金山残敵あぶり出しというのは毒ガスのことで、軍では絶対の軍事機密であり、これを口に出すとは軍の常識では考えられない。おそらく、この会話は、紫金山の戦闘が終わった後の安全地帯における会話と思われるが、ほとんど酩酊したような精神状態の中で発せられた言葉としか考えられないという。

では、なぜ向井少尉はこのような「軍の常識では考えられない」発言をしたのか。山本はその原因を次のように推測している。向井少尉は丹陽郊外で負傷し、その負傷の持つあらゆる恐怖(負傷による破傷風などで「生きた死体」になること)から解放されたばかりで、その喜び、それに実戦に参加しなかった引け目、その裏返しとしての強がり、これで戦闘は終わったという安堵感(皆これで戦争は終わると思った)、その他手柄意識などの様々の感情が重なって、あのような支離滅裂な会話になったのではないかと。

ところで両少尉は、裁判において、常州での会見も紫金山周辺での会見も否定している。これは、先ほど指摘した通り、ここでなされた会話が、裁判において「自白」と見なされたからである。これらの会話は、実際は浅海記者との談合に基づく「やらせ」であって事実ではない。しかし、これを裁判で「自白ではない」と主張することは極めて困難だから(ここに日本人における「迎合」の問題がある)、これが事実ではない事を主張するためには、この会見自体を否定する他なかったのである。
(つづく)