3.11の一周年が近づきつつあるが、未曾有の大災害に打ちのめされる事なく、国民が一致して助け合う姿勢を示している日本に対する世界の賞賛は未だに続いている。部品類のサプライチェインの建て直しも、世界の信頼に応えるに足るだけの素早いものだった。
しかし、原発事故の「総括」と「今後の方針」の策定はなお混迷の中にあり、国民の意識の深いところで大きな断層がある。「今後の方針」とは、一方では「被害者の救済」や「放射能汚染(特に体内被曝)の拡大防止」、他方では「長期エネルギー政策(原発再稼動の可否)」や「電力業界の再構築(地域独占体制継続の可否)」を含み、この全てが極めて重い問題である。
日本特有のやり方で、これ等の全ての問題を曖昧なままに残しておくと、全ての施策が何時までも中途半端になり、「国の経済効率を大きく犠牲にしながらも、多くの国民の不信感はなお払拭出来ない」という最悪の状況になりかねない。多少はとげとげしい議論になってもよいから、この際全ての問題にきっちりと決着をつけるべきだ。
原発事故の「総括」は、事故発生から9ヶ月以上もたった昨年の12月26日に、東京大学の畑村名誉教授を委員長とする「事故調査・検証委員会」の中間報告で、取り敢えずはまとめられた。これによって、事故が如何にして起こり、「対応のまずさ」によって如何に拡大したかは明らかになった。9ヶ月以上もたってやっとこの種の報告書が出されたという「遅い対応」に対する批判をさて措けば、この報告書は、事故直後に起こった事に関しては詳細且つ冷静に報告されている点、及び、そこに付記された「評価」と「提言」が意図的なバイアスを排除したフェアなものだったという点で、十分に評価出来る。
しかし、それでは、これで全ての「総括」が終わったと言えるかと問われれば、勿論そんな事はないと答えざるを得ない。この報告書が出された段階で各報道機関なども批判したように、この報告書が、この大事故を招いた遠因、特に、所謂「安全神話」を作り出してしまった「産・官・学の閉鎖体質」には全く言及していない事は、「報告が片手落ち」というよりは「報告が未完成」である事を意味する。
これは畑村委員長を批判するものではなく、「野田首相が中間報告書を諒とした上で、新たに別の委員会を作ってこれを検討させるべきだった」という事だ。何故なら、この事を検証せずして、「完全な事故再発の防止」は不可能であり、「長期エネルギー政策に過誤なきを期する」事も不可能だからだ。(現在、「東電の国有化」や、送配電と発電の分離を前提にした「送配電インフラの国有化」の議論もされているが、この為にも、「過去の体制に問題があったとすれば、それはどういう点だったのか」を、この際徹底的に議論しておく事が必要だ。)
勿論、この検証作業が、単に誰かを悪者にしてバッシングする事で終わってしまっては全く意味がない。甲論乙駁の激しい議論を覚悟した上での「より健全な新体制構築への具体策の提言」が含まれていなければならない。これには、「技術検証の完全透明化」や「完全な情報公開」「活発でオープンな議論」、ひいては「関連産業への競争導入の加速」や「学会あり方の抜本的な改革」等までが含まれて然るべきだ。「雨降って地固まる」という言葉があるように、今回の不幸な事故が、日本が必要としている「旧弊の打破」の一助となればもって瞑すべきだろう。
しかし、上記より更に重要な問題がある。それは、「放射能汚染の実態の継続把握」と「それが長期的にわたって人体に与える影響の査定」であり、この二つの問題は、今や国論を二分する深刻な問題になっている。
率直に言って、この議論では「反原発派」と一括りされている方々の議論の方に、綻びが目立つ事は事実だ。特に、「少しでも悪いニュースがあると、事実関係の検証もしないままに、すぐに拡散しようとする」「恐怖感を煽り、感情に訴える議論で世論を誘導しようとする」等々の姿勢が散見されるのは、極めて残念だし、「健全な反原発派」にとっても、こういう事は甚だ迷惑だ。(ネット上の議論はこの点で特に味が悪く、これだけ重要な議論なのに、お互いに些細な言葉尻をつかまえて罵倒し合っているかのような姿は大変見苦しい。)
論理的には、「今回の原発事故が引き起こしたレベルの放射能汚染の人体に対する影響」は「タバコの害」や「膨大な量の交通事故を引き起こしている自動車中心の現在の交通体系の害」に比べれば、はるかに低いレベルのものである事は議論するまでもないことだ。しかし、「放射能汚染の問題をゴタゴタ言う人は、最低限タバコをやめ、自動車に乗るのもやめた上で議論しろ」といったような事が言われるとしたら、これはまともな議論ではない。
「タバコは、自分が好きだから吸っている。タバコを吸って健康を害するより、タバコをやめて毎日が味気なくなる方が自分にとっては苦痛だ。車も、便利さと事故の確率を天秤にかけた上で、自分の判断で乗っている。これに対して、原発は、自分にとっては何の利益もないのに、誰か(国?)が勝手に作ったものだ。その為に事故が起ったのだから、現在の放射能汚染の人体に対する影響がどの程度であるにせよ、『リスクは皆無』と保証出来ない限りは、万人の不安を解消する為の施策を国が行って然るべきだ」と言われたら、反論は難しい。
原発の利益は、突き詰めれば「経済的メリット」に尽きる。つまり、多くの人が、この「経済メリット」が「原発に内在する諸リスク」の総和よりはるかに大きいと判断すれば、「反原発」の動きは終息する。しかし、この為には、「原発をやめれば経済が破綻し、失業者が町にあふれる」という因果関係を説明する事が必要であり、それはとても無理だろう。「経済的な問題は生じても、深刻な事態が起こる程ではない」という事になれば、原発推進派は「人の命と金とどちらが大切なのか」という批判から逃げられない。
(この事については、また別の見方も出来る。近年、米国やフランス、日本などで原発促進の動きが急になったのは、CO2による地球温暖化のリスクの方が原発のリスクより高いと思ったからだろうが、この仮定は福島の事故で脆くも崩れ去った。もしも、今、「原発のリスク」と「温暖化リスク」のどちらかをとらなければならないという二者択一になったら、国民の多くはどちらを取るだろうか? 万人の納得するような解決の為には、自然エネルギーのコストを抜本的に低下させる技術革新に期待するしかないのだろうが、それは遠い道程だから、現状では、人々はどちらかと言えば「温暖化容認」の方向に動くだろう。)
「現在計測されて問題視されている様な低線量では、人体に対する影響は殆どない事が、専門家の間では既に合意されている」と言う人達は多い。しかし、そう言う人達も、「それなら何故国がその事を明確に言明して、万一の事が起こったら全責任を取ると保証しないのか」と問われたら、答えられないのではないか?「低線量の放射能の人体に与える影響など、既に全て分かっている」と言う人は、政府にその事を理解させ、「保証する」「全責任を取る」と明言する事を迫るべきだ。
今回の事故の後に、パニックを恐れるあまりに、当然開示していなければならなかったSPEEDIのデータまで開示しなかったという大失態を犯した政府を、不幸にして国民の多くはもはや信用していない。その政府に「今すぐには健康に影響を与えないレベルだ」と言って貰ったからといって、「将来とも影響を与えない」と断言してくれない限りは、多くの人達の不安は全く解消しない。
現実に、年寄りの私自身は放射能汚染は殆ど気にする事はないが、幼い子供を持ち自分もまだ子供が生める私の義理の娘は超神経質で、私とて彼女に「あなたは神経質すぎる。そんな事は気にするな」等とはとても言えない。人間の「心理」は物事の最終判断に極めて大きな影響を与えるから、これを無視した机上の議論は現実には意味を成さない。私自身は大きな不安を持っていなくても、親しい人達に対し「心配するな」と断言できるだけの自信は、残念ながら現状では全くない。
さて、冒頭に述べたように、この問題を何時までも曖昧なままに引きずっているべきでないという事に賛同頂けるなら、私が現時点で提案したい具体的な施策は下記の通りだ。
先ず、国は全てのデータを隠すことなく公開すべきだ。食品の産地も消費者に正確に知らせる事を生産者と流通業者に義務付けるべきだ。(「不安感」は既にそれ以上の水準になっているのだから、今更パニックを恐れる必要はない。)次に、アゴラのGEPR(これは快挙。反原発派も進んで多くのデータや論文をここに持ち込むべき)に倣って、多くの論者の見解を誰にでも容易に理解できるような形で並列して紹介し、併せて国としての見解も示すべきだ。(これは「見解、即ちアドバイス」であって、必ずしも「保証」である必要はない。)
その上で、今住んでいるところに住み続けるか否か、何を食べるか食べないか、等々の判断は、国民各人に任すべきだ。人によって立場も異なるし考え方も異なるのだから、それぞれの判断が異なるのは当然であり、国がこれを一律に決めてしまうという事の方がはるかに乱暴だと考えるべきだ。(尤も、学校給食などは各人の判断に任すわけには行かないから、最も安全サイドに立った判断を採用するしかないだろう。)
各人が判断するという事は、タバコや自動車事故に対する場合と同じ様に、各人が「安全」と「その他の価値」のバランスを自分で考えなければならないという事だ。自分の判断によって生活上の便宜や生活のコストが変わってくるのだから、これは難しい判断になる。(より大きな不安を持つ人は、より不便でコストの高い生活を強いられる事になるが、これはある程度は仕方がない。)国の役割は、出来る限り正確な情報とアドバイス(見解)を、常に誠意を持ってタイムリーに提供する事に尽きる。
移住の要否に関わらず、生活コストの増大は避けられないから、これに対する補償を、事故を起こした東電が行うべきは当然だ。食品が売れなくなる事によって生じる損失に対す補償も同じ事だ。しかし、この金額がある一線を越えれば東電は破産するから、もはや支払えなくなる。その前に、東電が潰れてしまっては国(国民)が困るから、国は何らかの形で東電を救済せざるを得ない。という事は、東電が支払い不能に陥った被害者に対する補償も、最終的には国(国民)が代行せざるを得ないという事だ。
しかし、誰が支払うにせよ、この補償額には一定の限度があるのは当然だ。この決め方は難しいが、あまり根拠のない「不安心理」にまで対応する事は妥当とは思われない。何が根拠のある不安で、何がそうでないかを決めるのには、低線量の放射線が長期的に人体にどのような影響を与えるかについての「有識者の見解」を慎重に吟味するしかない。