バーナンキとゼロ金利制約

池尾 和人

少し前に(英国)エコノミスト誌のブログで取り上げられて話題となっていたローレンス・M・ボール(Laurence M. Ball)の「ベン・バーナンキとゼロ金利制約(Ben Bernanke and the Zero Bound)」という論文(pdf)を読んでみた。この論文は、NBER(全米経済研究所)のディスカッション・ペーパー・シリーズの1冊として出されたもので、いいかげんなものではなく、真っ当な学術的研究論文である(ただし、NBERのディスカッション・ペーパーの閲覧は一般には有料なので、論文本体に関しては、無料で閲覧可能なジョンズ・ホプキンス大学の方にリンクを張っておいた)。論文のテーマは、「2000年のバーナンキ」と「2011年のバーナンキ」がなぜ違うのかを解明することである。


2000年から03年にかけての時期には、ベン・バーナンキ(当時はプリンストン大学教授で、02年に連邦準備理事会の理事に指名される)は、日本の金融政策運営に対する最も辛辣な批判者の一人であった。その主張は、政策金利がゼロの下限制約に達した後も、中央銀行は「強力な政策手段」をいくつももっており、デフレからの脱却は容易なことだというものだった。

ところが、2008年に米国でも政策金利がゼロの下限制約に達した後において、連邦準備制度理事会の議長に就任していたバーナンキは、2000-03年の頃に自ら主張していた「強力な政策手段」のいずれもとろうとはせず、より慎重な政策運営しか実践してきていない。そして、2011年には「金融政策は強力な手立て(a powerful tool)ではありうるけれども、米国経済が現在直面している諸問題を解決する万能薬(panacea)ではない」と述べるに至っている。

2000-03年の頃にバーナンキが主張していた「強力な政策手段」とは、(1)長期金利に関する誘導目標の設定、(2)為替レートの減価(通貨安)、(3)3-4%のインフレ目標の導入、(4)中央銀行信用による財政拡張(財政ファイナンス)の4つである。リーマン・ショック以降、米国経済の低迷が長引く中でも、どうしてバーナンキはこれらの「強力な政策手段」を1つとして採用しようとしないのだろうか。

一つの、わりとポピュラーな解釈は、バーナンキ自身はその必要性を認識しているのだけれども、政治的圧力その他によって、そうした行動をとることを妨げられているというものである。こうしたバーナンキ自身の「考えは変わっていない」という見方に対して、著者のボールはバーナンキ自身の「考えが変わった」のだということを論証している。

大きな転換点は、2003年6月に開催された連邦公開市場委員会(FOMC)だとされる。その場でのビンセント・ラインハート金融政策局長ら理事会スタッフからの説明(briefing、日本風にいうと「ご進講」)とそれを受けた委員会での議論を通じて、バーナンキは考えを変えたのだと主張されている。ちなみに、このラインハートは、(『国家は破綻する』の著者のラインハート=ロゴフのラインハートの夫でもあるが、)中央銀行員としてのキャリアの長い中央銀行的思考を体現した人物である。

ラインハートの説明では、ゼロ金利制約下での政策手段として、主として(A)投資家により長い期間にわたって政策金利の低い状態が続くと予想するように促す(時間軸政策)、(B)資産供給の構成比を変えてリスクプレミアムに影響を与える(ツィスト・オペ)、(C)ゼロ金利で準備を過剰に供給する(量的緩和)の3つが考えられるとしている。そして、かつてバーナンキが提案した(2)及び(4)については、中央銀行に対する市場の見方を基本的に変えてしまうことにつながるとして否定的であった。また、他のスタッフによる説明や議論の中で、(1)に対しては明示的に反対が唱えられた。

こうした説明及び議論に対して、バーナンキは特段の反論を行わず、むしろ同意する旨の発言を行っている(FOMCの議事録は5年後に全文が公開されるので、その模様を公開された資料からボールは確認している)。その後、バーナンキは、先のラインハートの説明の内容をほぼ踏襲する内容の論文をラインハートと共同で執筆し、非伝統的な政策手段の効果は不確かなのでデフレに陥らないように予防的に行動することが重要だと主張している(換言すると、デフレ脱却は容易だという調子ではなくなる)。

こうした事実は、内心では考えが変わっていないけれども、政治的圧力等で違う行動をとっているという見方とは整合的ではない。学者が、自分が信じていることと違う内容の論文を公表するようなことがあれば、終わりである(学者生命はなくなる)。

その後、米国がゼロ金利制約に直面するようになってから、連邦準備理事会が実際に採用してきた政策は、まさにもっぱら上記の(A)、(B)、(C)に該当するものである。また、(3)に関しては、バーナンキ自らが2010年夏のジャクソンホール講演の中で、物価安定と整合的な水準を上回る中期的なインフレ目標を掲げることに対する支持はFOMC内部には存在しないし、インフレ・ファイターとしての連邦準備の信認を傷つけるものだとして否定している。

やはりバーナンキは、ラインハートらの中央銀行理論を受けいれるという方向に考えを変えたのである。なぜバーナンキが(ある意味で簡単に)考えを変えたかについて、ボールは、集団思考(Groupthink)の作用とバーナンキの性格が原因として想定されるとしている。エコノミスト誌のブログ記事は、連邦準備の理事としての「野心」を上げている。ただし、私にいわせれば、単にバーナンキは「君子」だったということかもしれない。

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池尾 和人@kazikeo