原発問題に対するリスク誤認を考える

藤沢 数希

先日、脳研究者の池谷裕二氏が読売新聞で、拙著『「反原発」の不都合な真実』の書評を書いて下さった。そこには「リスク誤認は脳の標準仕様(デフォルト)だと思う」と書かれていた。そして、筆者はこの当たり前の事実を改めて認識したのである。


筆者自身、金融機関でのキャリアにおいて、人々のリスク誤認を大いに利用してきた。多くの金融取引がゼロサム・ゲームであるから、本来なら確率的には儲からないはずである。しかし、金融機関の一部のプロはプラスサム・ゲームをやっているのである。なぜならば、リスク誤認をした個人や不合理な制度に縛られた機関投資家が、平均すると負けてくれるからだ。リスク誤認を誘発する様々な金融商品が開発され、これら商品を通して、市場という大海原にプランクトンのような栄養素が注入される。プロ同士の競争は、このようなプランクトンをいかに捕食するかというゲームで、いつも平均すると多少負けてくれるグループがいるので、若干のプラスサム・ゲームになる。

その一方で、原発問題に対する人々のリスク誤認には、筆者は大きな憤りを感じた。たとえば、原発再稼働問題で、筆者のような人間には、なぜ人々が原発を止めるなんていう馬鹿なことをするのか理解できなかった。筆者の不完全な脳による考察によれば、今の日本で原発を止めることが合理的とするには、少なくとも次の二点を立証する必要がある。すなわち、原子炉建屋内に核燃料プールがあり、原子炉に核燃料が充填されていても、原発が発電を止めることで安全性が高まり、なおかつ、その安全性の改善の度合いが、追加的に購入しなければいけない化石燃料の年間3兆円~4兆円もの財政負担を上回る必要がある。

福島第一原発の事故では4号機は定期点検中で、原子炉は空であった。それにもかかわらず水素爆発を起こしている。また、飛行機は離陸と着陸の時が一番危険であり、安定して飛行しているときが比較的安全であるように、原発も稼動している状態を停止させる時が危険だという。筆者には、原発が発電を止めることによって、それほど安全性が高まるとはとうてい思えない。また、化石燃料だけで年間3兆円~4兆円の負担になるが、これは消費税の2%分にも匹敵する多大な国民負担である。

筆者は、拙著の中で、他にも放射能に対するメディアの反応や、各発電方法別の単位電力当たりの死者数などから、原発問題に対する人々のリスク誤認はあまりにもひどいということを、さまざまなデータをもとに論理的に説明した。

これほど国民的な反原発感情が高まる中で、このようなある意味で原発を推進する主旨の本を出版したことで、反対意見を持つ人々からさぞかし多くの反論があると思っていた。たとえば、筆者が引用した論文のデータはこうだったが、実は他の論文ではこういうデータもある、などといった反論を期待していた。しかし、そういった反論は反原発の人たちから聞かれることはほとんどなかった。おそらく、反原発の人たちと、筆者では、論点そのものが全くずれているのだ。反原発の人たちは「人間が核エネルギーなどという邪悪なものを使うのはけしからん」「日本をひどい目にあわせた原発は滅ぼすべきだ」「得体のしれない放射能は怖い」ぐらいの素朴な感情に突き動かされているのだ。

再び、筆者の不完全な脳は、そういった反原発の人々―つまり多くの日本国民―は科学的ではなく、論理的には間違っていると判断している。そして、それは日本にとってひどく不利益なことだと考えている。だから、拙著の帯には「感情論を超えた議論のために」と書いたのだが、池谷氏の言葉を借りれば、「感情論を廃せよ」との主張それ自体が感情論となる。

案外、筆者が間違っていて、反原発の人たちの素朴な感情のほうが正しいのかもしれない。