対処療法の限界を超えてしまった現実

大西 宏

経済は生き物です。まるで激流で渦巻く波のように、人びとの予測を裏切る動きをします。円高が日本の産業競争力を損ねている、政府、日銀は円高対策を講じなければならないという大合唱が起こりましたが、現実は円安方向に動き始めています。なぜ円安になってきたのか、日銀による事実上のインフレ目標の導入も引き金になったこともあるでしょうが、日本の貿易収支が赤字化したことや、アメリカの経済が持ちなおし、ドルへの需要が高まったことなどが複合化して起こってきたなどが指摘されていますが、それも結果の解釈にすぎません。円安傾向への転換を予測した人はほとんどなかったように感じます。


渦巻く波は複雑な要因がからみあって私達を混乱させます。渦巻く川面を眺めていると酔いを感じるようにめまいすら起こし、そこに法則を見いだせないために、結論のでない、さまざまな憶測による議論も生まれてきます。
しかし、確実にいえることがあります。水は重力の法則に従って、高いところから低いところに流れることです。目に見える変化だけを追っていると、そのことすら忘れてしまう怖さがあります。本質的な構造の変化は確実に予測できます。典型は社会が高齢化にむかっていくことです。

このブログの視点も本質を突いています。需要と供給のギャップが生まれてきた、だから金融緩和や財政政策をという声があがってくることへの疑問を投げかけたものです。
需給ギャップが~って本当?(wasting time?) – BLOGOS(ブロゴス) :

需給ギャップは、ふたつの原因で説明がつきます。ひとつは工業化の進展でもう何十年も前から、供給能力が需要をはるかに超えてしまったのです。それが現実です。工業製品の不足は、よほどの新しい製品のヒットがあって一時的に生産体制が整わない状態か、東北の震災やタイの洪水などのような事態でも起こらない限り、供給能力過多があたりまえの現実です。
もうひとつの原因は、人口が伸びなくなったこと、とくに消費が旺盛な労働人口の伸びが、日本のみならず先進国では停滞しはじめたことです。とくに日本はその傾向が著しいことです。だから、産業は、新しい市場を生みだすか、あるいは途上国などの成長が期待できる市場を取り込むか、あるいは競争に打ち勝って既存の産業から市場を奪わない限り、この需給ギャップが埋まることはありません。

目先の間接的な対処にいくら知恵を絞っても、この現実が変わることはありません。そのことはビジネス現場で現実を見ていれば誰もがわかることです。

金融政策や財政政策といった抽象的な対処療法では、一時的な効果は得られても、かならずその反動がやってきます。地デジ化、エコポイントがテレビの買い替え需要を促進しましたが、テレビそのものの需要が伸びないために、結局はそれに乗ってしまい、需要がいつまでもあると錯覚した家電は惨憺たる結果に陥ってしまいました。

しかも結果が問われないところではなんでもありの議論が生まれてきます。マスコミに登場してくる評論家の人たちの主張がリアリティをもたないのも、現実をとらえていないからでしょう。製造の価格が低下しつづけているなかで、経済評論家の人が「ものづくり」こそが日本を復活させると聞くともう理解不能です。どのような産業であっても、実際の市場はより高い「価値」の提供をめぐる知恵の競争、創造力の競争で競い合っていて、製造だけでは差別化できず、開発やより多くのビジネスプロセスやビジネスの仕組み、またマーケティングを含めた総合競技化している現実から逃避する議論に過ぎません。

さらに思い込みによって、神話も生まれてきます。潜在成長力という神話です。潜在成長力という幻想をもとにした経済政策ほど馬鹿げたものはなく。成長は創りだすものです。日本がいま問われているのは成長をつくりだす能力です。景気回復だ、成長戦略だと主張する人がいますが政府ができることは限られています。

しかも、景気が回復すれば、金利が上昇し、国債価格が暴落し、さらに財政を逼迫させるリスクも決して低いわけではありません。財務省にとっては、景気回復は避けたいというのが本音かもしれません。
景気回復すれば国債が暴落するという悪夢|野口悠紀雄の「経済大転換論」|ダイヤモンド・オンライン :

消費税問題でさまざまな議論がなされていますが、多くの国民が安心、信頼できる議論は皆無です。社会保障を充実させるために、増税するという議論ほど馬鹿げた発想はありません。お金に色はついていないので、財政がもたない、しかもこの先年々社会保障費は自然増だから増税したいと正直に言えばいいのです。行政を効率化させるか、問題の本質である少子化への対処抜きの議論はほとんど意味をなしていません。いまの仕組みの延長線では、いくら消費税をあげても解決できないので、日本は北欧並みの高い国民負担率で、しかも中程度、あるいはそれ以下の社会保障しかできない国になって行くことのほうが確実性が高いのではないでしょうか。そう国民は感じているから、消費税の議論を額面取り受け止めることができないのでしょう。

どうすればいいのかですが、抽象的な机上の空論ではなく、より現実に近いところで、先に触れたようにより本質的な変化を直視し、問題解決をはかることだと思います。地方政府の強化は、より国民の政治への関与を高め、また政策の自由度を高めます。それが結局は国民の当事者意識、政治の「ワガコト化」を促進し、なにかをとれば、なにかが犠牲になる、現実はほとんどのことがトレードオフの関係組み合わせのなかでの選択だということがより実感でき、政治への関心も高まってくることは間違いないことです。
佐々木俊尚さんがおっしゃるように、ひとりひとりが「当事者」とならなければ、声の大きな主張がまかり通る、また責任をとらない人たちの声ばかりがまかり通る現実からは抜けだせません。
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お上に頼るのではなく、人びとが自立で現実に立ち向かう意識も高まり、結局はそれが、経済成長も、福祉社会の維持も自分たちの知恵を働かせないと勝ち取れないことがより鮮明になってきます。消費税は機能不全した国ではなく、育てるべき地方政府に渡すべきです。地方によって消費税が異なるというのは決して突拍子のない話ではなく、アメリカでは州によって異なり、また同じ州のなかでも場所によって異なっています。
人は誰でも、問題を正しく認識し、それを実感すると、思い切った解決にも勇気をもってチャレンジできます。それが変化の激しい時代を生きる知恵です。結果が一切問われない官僚機構への依存の高い統治のしくみでは、決して本質に迫る改革は望めません。

急がば回れで、この国のカタチや構えを変えることからはじめれば、日本のまだ残っている潜在能力をもっと引き出すことも可能になってくるものと思います。