政教分離というイノベーション

池田 信夫

大阪市の騒動は選挙リストの捏造など泥沼化してきたが、維新の会の今までの政党にない特徴は、橋下市長のカリスマ的な求心力が強く、彼のいうことはすべて正しいと思い込む熱狂的なファンが多いことだ。このため、紛争もイデオロギー的な宗教戦争の様相を呈してくる。


これは政治運動としてはよくあることで、中国の歴代王朝も宗教的な信念にもとづく農民反乱からできたものが多い。国家の本質な機能が戦争にあるとすると、命を賭けて個人を超える<祖国>を守るモチベーションは合理的な計算からは出てこないので、専制君主を神格化して人々を感情的に統合する必要がある。これは現代中国もイスラムも同じで、市民的自由のないことが政治的不安定の原因になる。

これに対して近代政治のイノベーションは、政教分離で宗教的な権威を政治から切り離し、信教の自由を認めた点にある(表現の自由はその帰結)。これは激しい宗教戦争を経てたどりついた「休戦状態」だが、政治システムとしては特殊なものだ。教会は、カトリシズムでは信徒の共同体(ゲマインシャフト)だが、プロテスタンティズムでは個人が自発的に集合する結社(ゲゼルシャフト)である。両者はまったく異なるガバナンスだが、それを分離することで宗教的権威から独立の民主制が成立した。

日本は、このどちらとも違う。天皇は祭政一致が原則だが、実際には祭祀しか行わない教皇のようなもので、古代から政教分離が行われているのだ。このように求心力の弱い政治システムが何百年も持ったのは、やはり異例に平和だったからだろう。人々は、よくも悪くも<祖国>を意識せず、超越的な権威を信じないでローカルな平和を守ってきた。それを無理やり<祖国>に統合しようとして失敗したのが、かつての戦争だった。

だから靖国神社をめぐって、政教分離をめぐる論争がいつまでも続くのは滑稽である。かつて人々を愚かな戦争に駆り立てたのは、天皇でも「国家神道」でもない。それは人々に今も共有される「空気」なのだ。