人生のターニングポイントは事後的にしかわからない-北野武に学ぶ-

高橋 正人

新年度も一週間が過ぎ、新社会人の中には「会社って地味な毎日が続いているだけで全然楽しくないな」ということに気が付いた人も多いだろう。

残念ながら正解である。

宣伝だから当たり前のことだが、学生向けの説明会やパンフレットなどではサラリーマンの「ここぞ」という場面(クライマックス)を切り出して紹介している。サッカーでいうと「ゴールの名場面集」を見せているのだ。しかし、実際のサッカーの試合では地味なパス回しや失敗したシュートに費やした時間の方が圧倒的に長いのと同様に、会社で流れるのは地味な日常の時間が大半なのだ。

しかし、落ち込む必要はない。


なぜなら、地味な日常の中にこそ、「格好いいゴールシーン」に繋がる転換点が潜んでいることが多いからだ。周りからは派手な成果ばかりが目立つが、ターニングポイントは本当に地味なのだ。余りに地味なので、周囲の人はもちろん、本人ですら事後的に振り返ってみなければ、それがターニングポイントであったことに気が付かないくらいだ。

ゴールシーン(最終的な成果)は派手だけれど、転換点は非常に地味であった例として、北野武(ビートたけし)氏が様々な分野の仕事を始めたきっかけを見てみよう。

世間一般的には、漫才でのブレイク、「オールナイトニッポン」や「俺たちひょうきん族」などの番組のヒット、ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞受賞などが北野武(ビートたけし)の「派手なゴールシーン」として認識されている。しかし、これらの出来事は最終的な結果に過ぎない。ターニングポイントはもっと前、かつ地味にやってきている。

(以下、引用箇所は、北野武「今、63歳」より)

漫才を始めたきっかけ

俺ね、漫才をやろうと思ったんじゃないんだけど、フランス座にいたときに、きよしさんが先輩でいて、「たけし、いつまでもよ、コントやったってしょうがないぞ。いちいち服変えなきゃいけないし。漫才やろう、漫才」って言うから(略)。

俺は、はじめから漫才師になる気がないからね。きよしさんとやる気もなかったし、しょうがねえからやってたんだけど。

デビュー当時の北野氏は、漫才ではなくコントに力を入れていた。しかし、「漫才ならいつも同じスーツで大丈夫」という何とも安易なビートきよし氏のアドバイスを渋々受け入れたところ、漫才でブレイクすることになった。会社でもこういうことはよくある。本人は乗り気ではないのだが、上司の勧めや会社の方針などで仕方なく始めた分野で、大きく花開くというパターンだ。渋々始めたことが意外と良い方向に転がっていくこともある

テレビに出たきっかけ

テレビ東京の人がね、Wコミックっていうおいらの先輩を、テレビに使いたいって、松竹演芸場に観に来たんだよ。(略)で、観に来て、Wコミックを待ってたんだけど、(略)、ツービートを使うことになっちゃった(笑)。「ツービートはおもしろい」つって。

当時のツービートは、テレビ局の関係者が自分たちの舞台も鑑賞していることを知らなかったかもしれない(少なくとも自分たちがスカウトの対象ではないと知っていた)。したがって、当時の舞台は、彼らにとってはありふれた日常のいつもの出番に過ぎなかった。しかし、自分を引き上げてくれる人物が偶々見ており、テレビという新しい世界に進出することができた。会社の仕事でも、本人にとっては退屈な日常の一場面に過ぎなくても、どこかで重要な人物に見られていることがある

映画監督になったきっかけ
北野氏の初監督作品である「その男、凶暴につき」は、当初、深作欣二氏が監督するはずだった。しかし、深作氏が配給会社との条件交渉で折り合いがつかず、監督を辞退してしまったため、北野氏に代役として監督の依頼があった。本人は最初から映画監督になろうと思っていたわけではないのだ。ビジネスマンでも、先輩が休んだとか会社を辞めてしまったなど、急な代役でチャンスがやってくることは時々ある。

本稿では、北野武氏についてのみ記述したが、多くの偉人の自伝・伝記で、上記の三つと同じようなエピソードを見かける。

「渋々始めたことが意外と良い方向に転がっていくこともある」「どこかで重要な人物に見られていることもある」「急な代役でチャンスがやってくることもある」、という三点を心の片隅に留めておくことを新社会人にお勧めしたい。また、私自身が新社会人に対して偉そうに語れるほど年配ではないため、新年度になったこの機会に改めて自分にも言い聞かせておきたい。

高橋 正人(@mstakah