日本ならではのナベツネと小沢一郎 - 英国では通じない二人の倫理観

北村 隆司

ニューズコーポレーションの盗聴や政界工作を調査していた英国下院の委員会は、メデイア王の異名を持つルーパート・マードック会長を「国際的な大企業の経営者として不適である」と断じた。

主な英米紙は、こぞってこの報告書を一面で取り上げているが、日頃スキャンダル好きな日本のマスコミは、何故か、このニュースを殆ど伝えていない。


盗聴に端を発したニューズコーポレーションへの批判は、メディアの影響力をフルに行使して政治に圧力をかけてきた疑いが浮上し、英国政界とメディアの癒着に焦点が移って来た。この事件を機に、英米の新聞がメデイアの社会的な責任のあり方について多くの紙面を割いている事を考えると、同じような問題を抱える日本のメデイアが、この問題で沈黙しているのが気がかりである。

指導者の信用を重んじ、指導的地位にある人物に「倫理的、社会的、法的」責任のすべてを問う英国で、報告書がマードック氏を「大メデイアの経営者には不適と断じた」事は、法的拘束力が無いとは言え、進展具合によってはマードック氏が帝王の座から追放される可能性すらある重大な報告書である。これは、法的な罪を問われないだけで、政治指導者の完全復帰が可能な日本とは大違いである。

審査会や公聴会でマードック氏が繰り返した「すべて任せていた」「部下を信頼していた」「記憶にない」「聞いていない」と言う弁解は、小沢氏の弁解と瓜二つであった。

性格の異なる判決と委員会報告は一緒には出来ないが、小沢裁判で通じたマードック氏の弁解も英国では通ぜず、「経営者として不適格」と言う厳しい烙印を押されてしまった。

指導者の倫理的、社会的な責任を問う習慣がない日本では、小沢氏の様に法的な罪さえ問われなければ「指導者として完全復帰」出来るとする有識者の声も強く、日英の価値観の違いの大きさには驚かされる。

この様な違いを生んだ背景には価値観の違いだけでなく、実態より形式的整合性を重んじる日本の裁判、審議会、公聴会のあり方にも大きな原因があるように思われる。

ここで思い出されるのが、新渡戸稲造の「武士道」の序文の一節である。曰く:
「ベルギーの高名な法学者ド・ラヴレーに、『日本の学校には宗教教育がない』事を教えると『宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか?』と問われた。

私はその質問にすぐに答える事が出来なかった。なぜなら、私が子供の頃に学んだ人の倫(みち)たる道徳の教えは、学校で習ったものではなかったからである。そこで、私の善悪や正義の観念を形成しているさまざまな要素を分析して見て初めて、そのような観念を吹き込んだものは武士道だったことに気がついたのである」

西洋化した学校制度に押され「武士道」の消えた日本と「宗教教育」と「騎士道」の伝統を残す英国の価値観の違いが、指導者の責任のあり方についても、このような違いに結びついたと思うと、日本の今後の「倫理」教育のあり方についても考えさせられる。

それにしても、「部下にすべて任せていた」「部下を信頼していた」「記憶にない」「聞いていない」と言う弁解が通じる日本の司法判断に救われた小沢氏や、権力者との親しい関係が疑惑を呼び「メデイア経営者として不適格」の烙印を押される英国とは正反対に、政界のボスとの強い関係を誇り、政界再編成も自分の手でやろうとするナベツネ氏は、日本人に生まれた幸運を多いにかみ締めるべきであろう。

言論の自由を国家の礎と考える英米では、メデイアの政治からの独立は必須条件である。その点から見ると、旧国有地の払い下げ土地に大手新聞の豪華本社が揃って建てられてても疑問すら沸かず、政府首脳とメデイア経営者の密会が当たり前の様に行われる日本には、真の言論の自由は存在出来ないのも良く解る。

国際化の進む今日、法定責任は当然として、高い倫理観と社会的責任を指導者に求める英国的社会と、現代日本の様に、法に触れなければ問題ないと考える社会のどちらが、国際的な選択に耐えるかは興味深い問題である。