「水戸黄門」の正義

池田 信夫

ちょうど1年前の5月6日、菅首相は記者会見して浜岡原発の「停止要請」を行なった。そのとき私は「この要請には法的根拠がない」と批判したが、メディアはこの「英断」を賞賛した。これは菅氏のスタンドプレーだと思われていたが、大鹿靖明氏によれば経産省の官僚が主導したものだという。経産省は、特に危険だといわれる浜岡だけを止めて、他の原発も止めろという動きの「ガス抜き」をはかったのだ。


結果的には、この「超法規的措置」は裏目に出た。いったんルールなしに停止させると、「定期検査後の再稼働も止めてくれ」という地元の声に抵抗することはむずかしい。そして際限なく裁量行政が続き、ついに今日すべての原発が止まった。朝日新聞は社説で、こう批判する。

野田政権は「脱原発依存」を掲げながら、規制当局の見直しをはじめ、何ひとつ現実を変えられていない。再稼働についても、ストレステストをもとに形式的な手順さえ踏めば、最後は電力不足を理由に政治判断で納得を得られると踏んだ。これで不信がぬぐい去れるわけがない。福島事故で覚醒した世論と、事故前と同じ発想で乗り切ろうとする政治との溝は極めて大きい。

ストレステストが形式的だというなら、何が実質的なのだろうか。大阪府市のいうように「使用済み核燃料の最終処理体制の確立」を再稼働の条件にしたら、永遠に再稼働はできないかもしれない。

法的には、再稼働の条件は明確である。電気事業法第39条では「事業用電気工作物を設置する者は、事業用電気工作物を経済産業省令で定める技術基準に適合するように維持しなければならない」と定めており、ストレステストも地元の合意も必要条件ではない。技術基準にもとづかないで、行政が恣意的に稼働の可否を決めることは違法である。

なぜ、このような回りくどい手続きが定められているのだろうか。それは国家権力が個人の権利を侵害したり、私企業に介入したりすることが多いからだ。しかし與那覇潤氏も指摘するように、法の支配は「英国で封建貴族の既得権益を君主に認めさせるところから始まった特殊西欧的な政治体制であり、最初から東アジアには当てはまらないのだと思っておいた方がよい」。

法の支配の起源はキリスト教にあるとされており、日本を含むほとんどの国では不自然である。日本人にとっての正義とは、水戸黄門や大岡越前のように「賢いお上」が決めるものだ。これが朝日新聞の推奨する「実質的な正義」だが、それは中国共産党が重慶市長の「犯罪」を真偽不明の理由で処罰した正義と同じである。こうした「徳治主義」は、面倒な法律に拘束されない賢明な判断になることもあるが、あなたが突然、理由もなく逮捕される原因ともなる。

人々の「不安」を根拠に行政手続きを決めていたら、全員一致するまで何も決まらない。主観を排して科学的な基準にもとづき、裁量を排して法的な手続きを踏むことが、近代社会が長い歴史の中でつくってきた知恵なのだ。民主党政権も朝日新聞も「水戸黄門」の世界に生きているらしいが、橋下徹氏はさすがに法の支配を理解している。

僕の市長と言う立場での論理に傾きすぎのきらいがありました。現行法制のルールに従っているのであれば関電の営業利益を人治で冒すわけにはいかない。電力供給体制の変更は政治運動。再稼働手続きはそれとは別個の法治の論理。しかし法は政治によって作られる。狭間の問題ですね。

彼が脱原発を志向するのは結構だが、そういう政策論と企業活動への介入は別問題である。今回の再稼働騒動は、日本が「水戸黄門」の世界を脱却して成熟した近代国家になれるかどうかの試金石である。