国民のワガママと民主主義 --- 岡本 裕明

アゴラ編集部

ギリシャ人はある矛盾を起こしています。それは緊縮財政はイヤだけど、ユーロ圏には残りたいと思っていることです。

日本でも同じような矛盾がおきているような気がします。社会保障は十分に欲しいし、税率は下げて欲しいし、何かあったら国に面倒見てもらいたいけどお金は出せない、ということです。お金とはこの場合、消費税であります。

私はこのような矛盾は世界中で起こりつつある現代の大きな問題になってきているような気がします。

何故こうなってしまったか考えてみると私は民主主義という名を借りたワガママではないかという気がします。


ギリシャはユーロに加盟して急速に裕福になりました。アテネのオリンピックも開催されました。つまり、ユーロに加盟したことで国民の生活レベル全体がリフトアップした状態になったと考えられます。そこに「いや、実は財政が思ったより悪かった」ということが発覚し、生活水準が向上していた一般国民がその地割れに落ち込んでいくような状態が生じたと言ったら分かりやすいでしょう。

日本もまったく同じですがスパンは長く、戦後から持ち上がってきた国民生活全体のリフトアップが1990年代初頭に境に地割れというより、全体が下がってきてしまった、という構図でしょうか。

双方に共通するのは一度味わったおいしいものは忘れられない、ということです。

アメリカや韓国などでも今後、同じような問題を抱える気がいたします。政治が混沌とする原因の一つもある意味、ここに原因を見出すことは可能ではないでしょうか?

ギリシャでは本当に今まで以上に頑張らなくてはいけないとする党ともういい加減にしてくれという国民のボイスを受けた党に二分し、いまや国民のボイスが通りやすくなってきています。

日本の場合、政治家のボイスはそっぽを向かれ支持政党なしがいわゆる国民の声でしょうか?

アメリカでも韓国でも政治において国民の声は割れています。

ある意味、厳しい選択を迫られているのは政治家のみならず、国民全体であるということです。日本の場合、消費税を導入するかどうか、その効果の是非は別として、税を上げず何もしなければ財政は破綻するかもしれないということを置き去りにしてしまいます。

原発も同じようなことがいえるかもしれません。識者の意見を聞く限り、「将来的には原発をやめ、代替エネルギーで電力を供給することを目指す」ということかと思いますが、この将来までのつなぎはどうするか、という議論が欠落しています。

私はこれら「ワガママな民主主義」は非常にメンタルな問題ではないかという気がしています。一度経験し、記憶された事象に対してそれを否定するような判断や行動には断固反対する、ということであります。精神論的な話は私はわかりませんし、ここでするつもりもありませんが、仮に資本主義のつまずきをあえて言うならば一度染まった人の色はそう簡単には変えられないということのような気がいたします。

我々は今まで経験したことのないような世の中に突き進んでいくのでしょうか?


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年5月20日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。