民法は、第752条で夫婦間、第820条で親から子に対する扶養義務を定めています。また第877条では、直系血族(祖父母、親、子、孫など)と兄弟姉妹の間での扶養義務(経済的に余裕がある場合に生活扶助義務があること)を定めています。
法律に書いてあるってことは、守らないと違法ということです。親が子供を放置することも、子供が介護の必要な老親を放置することも違法です。このあたりまでは心情的にも納得できます。
でも兄弟姉妹になると微妙ですよね。若い時ならともかく、全員が80代になってお互い10年以上会ってないのに、遠く離れた地域に住み、生活が困窮している兄に仕送りをする義務がある、と言われても戸惑う人もいるはずです。たとえ自分の方に少々の“経済的余裕”があっても、自分だって高齢なわけで、簡単に仕送りを始めることは難しいでしょう。
この扶養義務が現実的に関係するのは、生活保護の申請時です。そこには「まずは私的扶養(親族間の生活扶助義務)、それが利用できない場合に公的扶養(生活保護)」という原則があり、役所は生活保護の申請者にたいして、まずは家族に助けを求めるよう指導します。
今日考えたいのは、この「家庭内の問題は、まず家庭内で解決すべし」という原則についてです。
これに関しては、扶養義務以外でもたとえば、「夫婦間の強姦罪は成り立つか」とか、「親の財布から同居の息子(成人)がお金を盗んだ場合に窃盗罪が成り立つか」などの問題があります。いずれも日本では犯罪として成立する事例は少なく、「家の中のことには法律は口をださない」というのが現在の日本の原則(慣行)のようです。
ところが、伝統的な家族観や典型的な家族関係が崩壊すると、家庭内では解決できないことが増えてきます。するとそれらについても、家庭外=社会で解決しなければならなくなります。
この問題が複雑になりつつあるのは、“家族の関係性”が急速に多様化しているためです。子連れの離婚や再婚の増加に伴い、「会ったことはないけれど、血のつながった親」(=小さい時に親が離婚し、母親に育てられた子供にとっての、実の父親との関係)とか、「全く心が通じ合ったことのない親子」(親の再婚相手との関係)、「母親も父親も自分とは異なる兄弟や姉妹」とか「前の前の前の夫の子供」のような関係が、出現し始めています。
これらを伝統的な「血のつながりがあり、法律的な関係もあり、かつ、長年を共に過ごしてきた実体的な家族」と同様に扱い、「家族だから扶養義務がある」「それは家庭の中で解決すべき問題」と言われても、心情的に納得できないケースがでてくるのは当然です。
つまり、
「問題解決コミュニティとしての家庭の崩壊」、もしくは、、
「家庭の問題解決能力の低減」が起っており、そのために
「家庭内問題の社会化」や「家庭問題の可視化・顕在化」
が起こりつつあるのです。
たとえば、“昔→今”という形で書くと、
例1)障害がある子供は親が扶養する。親の没後は長男(家長!)夫婦が面倒を見る。→ 親の没後は、自立できない障害者の兄弟(姉妹)は施設に移って暮らしてもらう。
例2)親が子供を育てる。親が亡くなると親戚が育てる。→ 育児放棄や虐待された子供が、児童養護施設で育てられる。親戚も親の亡くなった子供をひき取らない。
例3)子供が老親の面倒を見る。→ 親は介護保険と、介護施設で世話をされる。
例4)成人した子供がギャンブルで作った借金は(連帯保証がなくても)、親が田んぼを売って払ってやる。→ 成人した子供が借金を返せない場合、子供が自己破産する。
例5)犯罪を犯した(成人後の)娘・息子を親が監督して更正させる(と裁判所に約束する。)→ 成人した息子、娘の犯罪には自分は関係ないと断言する。
例6)経済的にやっていけない人を、兄弟姉妹が扶養する。 → 生活保護で扶養される。
というような感じです。このように昔は家庭内で問題解決していたことでも、今は社会で解決することが多くなっていると思われます。
特に介護保険の導入はこの点でエポックメーキングであり、日本社会の変節点でした。老親の面倒を看ることは、過去ずっとごく当然に「家庭内で解決すべき問題」とされてきたのです。それが介護保険制度ができたことで、「老後扶養問題は、社会で解決すべき問題。もちろん家庭のみで解決できるならそれでもいいですが。」という位置づけに変わりました。
ここでは、公的扶養は私的扶養の有無とは関係付けられていません。介護保険を申請する際「子供さんが親の面倒を見ることができる場合は、介護保険は使えません。」とは言われないのです。子供が扶養できるかどうかに関わらず、健康状態によって支援や介護が必要だと認定された高齢者は介護保険のサポートを受けることができます。
一方で育児については相変わらず「まずは家庭でやってください」という原則が健在です。多くの認可保育園では、母親が専業主婦では子供を預かってくれません。優先されるのはフルタイムで働いている母親や母子家庭など、家族内では保育ができない家庭です。つまり、育児に関しては家庭内での問題解決が最優先であり、「私的扶養が可能な場合は公的援助は与えられなくて当然」という考えです。
これだけ少子化が問題視されても、父親の育児休暇の取得促進は全く進まないし、保育所不足問題も遅々として解決されないのも、「育児は家庭(=母親)の責任」という原則が存在しているからでしょう。しかし実際のところ「少子化という社会問題」を家庭で解決しろというのは暴論です。だからこの問題は解決できないのでしょう。
同様に「家庭内で解決しろ!と言われているけれど、とても不可能」と思われるのが、高齢ニート問題です。三十代半ばを過ぎたニートの子供に関して、親のしつけや育て方が悪かったのだと言われることもありますが、原因はともかく、だからといってこの問題を家庭内で解決するのはもはや不可能です。
40才近くでほとんど職務経験のない息子を抱えて、年金生活をする高齢の両親にどう何ができるというのでしょう。社会が積極的に乗り出さない限り、この問題は親の年金と貯金が尽きるまで放置され続けるに違いありません。
幼児の虐待問題(特に、親の年齢も若く、離婚再婚を経験しているようなケース)も同様です。家庭の形が急速に変化し、問題も多様化している中、「家庭の問題はまず家庭内で解決せよ」というコンセプトは本当にこのままでいいのか、議論を始める時期ではないでしょうか。
時には社会の側から家庭の中に首を突っ込み、「問題はありませんか?、公的な支援を使ってはいかがですか?」と積極的に介入するくらいのことが必要な世の中になりつつあるのではないかとさえ感じる今日この頃です。
(ちきりん)
(ref: 20071009)