「橋下いちびり政治」の大いなる過誤

石田 雅彦

大阪弁に「いちびり」と言う言葉があるんだが、関西出身以外の人間にとって意味を理解しにくい言葉の一つです。同じように非大阪人に理解しにくい言葉として「ぼちぼちでんな」がありますが、こっちは「いちびり」よりはずっと意味が通じやすい。


兵庫で生まれ育った嫁をもらい、大阪へ嫁いだ妹のいる筆者が、いくら「いちびり」の意味を彼女たちに聞いてもなかなか要領を得ません。どうやら、目立ちたがりのおっちょこちょい、というくらいの意味らしい。そう言うと、彼女らは「そうとも言えない微妙なニュアンス」を語ります。ひょうきん、というのとも違うらしい。

クラスに一人くらいは必ずこういうタイプの男子がいたでしょ、と彼女たちは言います。教師が黒板を向いた瞬間、調子に乗って机に上がり、うっかり足を滑らせて落ち、大騒ぎを引き起こす。本人には落ちるつもりもないので自分でも事態に驚き、その様子がまた「しようもない」。嘆息と憫笑の対象なのに妙に人気があって憎めない。そんな男子のようです。ちなみに、女子に対して「いちびり」という表現はあまり使わないらしい。

先日、映画『プリンセストヨトミ』というのを観たんだが、これは万城目学氏の原作小説を映画化したものです(万城目氏も大阪出身)。大阪に太閤秀吉の血筋を引く日本政府とは別の「地下政権」があり、500年前から大阪人はみんな連綿とこのトヨトミ政権を受け継いできた、という内容。司馬遼太郎氏の小説なんかを読んでも、大阪人は今でも太閤秀吉時代を懐かしんでいる、みたいな内容の文章が出てきて驚かされる(司馬氏も大阪出身)。このへんも大阪出身者以外にはちょっと理解しがたいところです。

もともと大阪人には、他地域出身者にはないルサンチマンな反骨的反体制精神、反中央意識がある。こないだ西成区へ迷い込んだとき、「要塞化」された西成警察署に驚いたんだが、あそこまで頑丈厳重に建てた警察署をほかに知りません。あの建造物こそルサンチマン大阪の象徴です。

そういえば、小松左京氏の『日本アパッチ族』にしても開高健氏の『日本三文オペラ』にしても高度成長前の大阪のカオスを描いていながら、両方の作品とも決して「大阪アパッチ族」でもなければ「大阪三文オペラ」ではない。大阪はイコール日本である、という意識があるんでしょう。で、ご両人ともに大阪人ですが、こうした中華大阪精神は日本には京都にもない一種独特なものです。

ところで、東京で生活していると、大阪弁を使う人によく出くわします。関西からこっちへ来て期間が長い人でも、直そうとしても直らないのか、それとも直す気がないのか、意固地に使い続ける人も多い。中には、大阪弁を強調しながらワザと使っているような人もいます。

方言、というのは言語の多様性が表れていて興味深いんだが、東京で大阪弁以外の方言を聞くことはマレです。同郷人同士の場合はともかく、ズケズケと博多弁で話していたり山形弁で話す人はほとんどいない。東京で沖縄言葉を話すウチナンチュもいません。不思議なことに、大阪弁だけが東京で一種の妙な「市民権」を得ている。

大阪弁にだけしつこく使い続ける人がいるのには、いろんな理由があると思う。テレビの影響も大きいでしょう。標準語ばかりの中で大阪弁を話すと個性的と思われたり、吉本興業あたりの芸人のように「おもしろい」人間と思われて女性にモテると考えたり、言いにくいことも大阪弁で言えばサラリと言えると思ってたり、大阪弁で話すと押し出しが強いから使ってたり……いろいろ考えられる。

こういうことを大阪弁使用者に言うと「いちいちそんなことにコダワる東京人がウザイんじゃボケ」的な反応が返ってきます。ようするに「どうして東京なんぞにおもねる必要があるねん」ということらしい。大阪は日本で二番目に大きな都市なんじゃ、東京なんぞナンボのもんじゃ、わいらは東京中心の考え方には沿わんぞ、というわけです。その一方で、上記の筆者のように他地域人が大阪弁を下手にマネすると、その違和感をめちゃくちゃ叩かれ突っ込まれる。

大阪にもあちこちから他郷の人が流入してくるんだが、転勤で行った他地域人が大阪弁を話せず仕事がしづらい、というのもよく聞く話です。方言で考えれば、多種多様な地域の出身者が集まる街だからこそ東京では「標準語」というオブラートで包んだ「おかしな言葉」をみんなで共有し、しかたなく使っている。デラシネ文化から産まれた「標準言葉」が東京弁です。そうした空気を読まずに「東京の言葉」だから、というだけで拒絶し、意固地に大阪弁を使い続ける大阪人も多い。

当然、郷土意識はどんな地域にもあります。ここで東京で暮らす大阪人に無理に「標準語」を話せ、などとは言いません。方言自体を否定しているわけじゃない。ところが、関西へ行って「標準語」を話すと逆に引かれる。神戸福原のギョーザ屋へ入って「標準語」で注文した途端、混雑していた店内が沈黙し、客が全員、奇異な闖入者としての筆者を見た瞬間が忘れられません。

こうした大阪には非寛容な排他性がある。また、ルサンチマン的な反中央意識も強い。太閤秀吉を懐かしむ大阪人というのは、地縁血縁的な共同体を大切にしている人たちです。ここで筆者は「いちびり」を想起するんだが、大阪弁を使い続ける人、異様に東京へ対抗心を燃やしている人、こうした人たちを「いちびり」と呼ぶんじゃないか、ということです。しかし「いちびり」という言葉を理解しがたいのと同様、大阪人のメンタリティも他地域人には理解しがたい。

ずっと原発再稼働へ叛旗を掲げ続けていた橋下徹大阪市長が、白旗を揚げて再稼働容認を表明しました。橋下氏の手法を「いちびり」と分析したブログも多いんだが、他地域人にとって理解しがたい言動、という意味での「いちびり」でもあった。事ここに至って宗旨替えをするなら、これまでの言動は、単なる目立ちたがり屋のおっちょこちょい、とソシリをうけても仕方ありません。そんな「いちびり政治」が、排他的反中央意識の強い大阪人を煽りモテ遊び利用しているとすれば、橋下氏の過誤はひじょうに大きい、と言えるでしょう。