大学は肩書きではなく「人的資本」を得るところである --- ノア・スミス(Noah Smith)

アゴラ編集部

表題について、私はあまり知らない領域だが自分なりの考えはある。

大学とは肩書き(いい大学へ入ったという評価。雇用信号、シグナリングsignaling)をつけるためのものであり、「人的資本」を得るための場ではない、と考える人がいる。多くの経済学者はこのように信じていると言ってもいいだろう。しかし、彼らは正確には一体どんな価値が学生に与えられると考えているのだろう。


知能だろうか? いや、それでは意味をなさない。誰が優秀であるかを見分けるのは単純すぎる。一般的知能を示すためにすべきことは、テストを受けるだけで済む。一般的な知能を示したいのであれば、APテストやSAT IIテスト、並外れた数学的知能を示したいのであれば、国際数学オリンピック、といった具合だ。数学の読解力、あるいは記憶力を証明するためだけにエリート校に4年間在籍するのは無意味だ。

実際のところ日本では、雇用する際の決断の多くは正にこれらの大学イメージに基づいている。良い職に就きたい高校生は、高校時代のすべてを費やし、実に長期に渡る大学入試の試験勉強をする。そして雇用側は基本的に、こういった試験で最も成績が良かった者を採用する。大学にしてもこれと同じ試験を元に選定をする。

しかしながら、日本の大学は基本的にこれ以上の情報はまったく提供しない。その理由は

A)日本の大学生はほとんど勉強しない。そして

B)日本の雇用主は大学の成績には目もくれない、というものだ。

日本人が大学に進学する理由が何であれ、知能に関する情報を送るためではない。アメリカにおいても同様だ。

そうなると、大学生の彼らは他にどんな情報を送っているのだろう。耐え難い遊びへの誘惑に直面しても一生懸命働く能力だろうか。

実際私は、特にアメリカにおいて、これを実に重要なことだと考えている。大学での業績が重要であるとするなら、パーティーに誘われた時に勉強への意欲が上回ることは重要なメッセージだ(更新情報: この意見に同意しているシグナリング擁護者の記事)。

でもこれは日本には当てはまらない。日本では、大学生は多くの時間を遊ぶことに費やしている。実際、東京大学のような一流大学でさえ、それが大学においてすべきことだと考えられている。奨励されてさえいるのだ。面白い事実は、日本人の多くは大学を「モラトリアム(執行猶予期間)」と呼んでいる。働き始める前のモラトリアムという具合に。

こうした例は、大学生活は時間つぶしの消費すべき期間ということを示している。まあ、ある程度それは事実だ、大学は楽しい。しかし、人は消費を円滑に行おうとする。大学には全てが凝縮されている。従って、大学とは主として消費であるというのは理屈が合わない。

ここで、人的資本が登場する。経済学者(少なくとも私と同じPhD卒業生の1人)は、大学は役立つスキルを生産しないことを証明しようとしてきた。しかしこれは的外れだと私は思う。つまり、大抵は仕事を通じて学ぶこれらの役立つスキルは、人的資本のうちで唯一の価値あるものではないのだ。仕事によっては獲得しえない、極めて重要な人的資本が三つある。

1)モチベーション

2)視野を拡げること、そして

3)人脈

この三つが、私が考えるに、日本そしてアメリカの大学が学生へ提供すべき資本である。

まずは、モチベーション。モチベーションは個人の人的資本において量が乏しい、あるいは「limiting reagent(限定試薬)」と広く認識されている。これが元で「Attitude is everything(態度が全て)」「Your attitude determines your altitude(態度があなたの地位を決める)」といった、モチベーションを起こさせようとする煩わしいポスターのスローガンとなった。あるいはカルビン・クーリッジ氏は次のように述べた。
「この世に粘り強さに勝るものはない。才能ではだめだ。才能がありながら成功できない人は山ほどいる。天才でもだめだ。恵まれない天才など語り草になっているほどだ。教育でもだめだ。この世は教育を受けた落伍者だらけだ」

これらの格言は古臭くて煩わしいが、事実である。スキルは、それを仕事に応用させようとしなければ意味が無い。どんな科学者やエンジニアにとっても長期的最大恐怖は「燃え尽きること」そして臨床的鬱病であることは誰もが知っている。貧しい国々では、貧困への恐れが一生懸命働くことの十分な動機となっているが、裕福な国々、別の言い方をすれば、優秀な人材のほとんどが大学に行く国々では、モチベーションはよりはかないものなのだ。

裕福な国の優秀な人材は何によってやる気を起こすのか? ここからは私の推測になるが、それは「人間関係」だと考えている。友人や家族。我々は他人のために一生懸命働く。若い時分我々が頑張るのは、両親が望むから。しかしながら親元を離れると、やる気を起こさせるために別の人間関係を探す必要が生じる。Tiger Mom(タイガーマザー、教育ママ)の監視の目にさらされ高校時代優秀だった者が、母親が肩ごしから見張らなくなった途端、モチベーションを無くした例をどれ程見てきたかを明かすことはできない(しかしながら、こういった人物の内、一人の名前は挙げられる。ノア・スミスだ)。

母親の代わりに青年は新しい人間関係を築く必要がある。親友、恋人、そしてゆくゆくは配偶者となるパートナー(やがて別のモチベーションとなる子供につながる)。けれど、(早くに就職するためには必要であるにせよ)質を保ちながらこういった関係を早期に築くことは困難である。もしやみくもに探していたら、馬が合う友人や恋人を探し当てるのに長い時間がかかる。あなたが優秀であり、一番馬が合うのは別の優秀な人、ということであればなおさらだ。

ここで大学が登場する。大学は「優秀な人材」が別の「優秀な人材」に出会う格好の場所だ。数多くの余暇活動や学生が暮らす狭い寮は、友情や恋愛関係の構築を助長する。一方で大学の排他的な面によって、学生が出会う人々は、あらかじめふるいにかけられているために馬が合う可能性が高い。アメリカでは、「college experience(大学卒)」にはパーティー、旅行、クラブ活動、競技大会、宗教団体、共同ドラッグ使用、勉強会、深夜の終わりなきおしゃべり、そして、さらに内輪なイベントが含まれる。日本なら、「合コン」「飲み会」、そしてクラブなどが含まれる。アメリカの大学はもう少しましだが大同小異だ。

学生が大学で築く友情や(とりわけ)恋愛関係は最大のやる気の元である。これは人的資本にとってとてつもない後押しである。

2番目に「視野を広げること」がある。これは人生におけるさまざまな可能性について学ぶことだ。大学に入学する前の私は、金融業界で働く人、テクノロジー新興企業に加わる人、世界銀行で働く人、あるいは、映画の音響を担当する人、はたまた、外国で英語を教える人の知り合いはいなかった。大学に入ると、今挙げた事をしている人に出会った。さらに彼らを見ていて、人生におけるさまざまな可能性について学ぶことが数多くあった。自分の仕事の選択肢を知るだけで、自分に合った道を選択する際に非常に重要となる。そして、これが驚くほど難しい。大学は、キャリアへの視界を広げ、人生の展望を得るのには最高の場所だ。もし高校からストレートに社会に出たら、成功を収めたさまざまな人々に出会うことは基本的にはないだろう。

視野の広さは人的資本の一部である。日本(キャリアに差異がそれ程なく、キャリアを滅多に変えない国)においてより、アメリカにおいての方が重要である。これは非常に重要なのだ。そして、別の貧しい者を目にしながら成長する貧しい人々にとってはさらに重要である。

最後に、大学で構築する人脈がある。これについてはあまり語らないでおこう。というのも、今まで多くの人により語られてきている上、山ほどの科学論文が発表されているからだ。加えて、大学より費用がかかり、また、プロフェッショナルな人脈が全てとして知られているMBAプログラムを見るだけでも、これは非常に明瞭なことだ(注釈: 評論家が指摘するように、これは実際「social capital(社会資本)」と呼ばれている)。

これまでに紹介した3種類の人的資本は全て、人々を結びつけることに関係している。ネットを通して構築できるものではない。自力で、あるいは、高校で構築できるものではない。大学が「集まり」を意味する「college」と呼ばれるのには理由があるのだ。

とにかく、これ以上だらだらと長引かせたくはない。自分の基本的な考えは述べた。大学は、知能をブランド化する仕組みとしては役に立たない。少なくともアメリカでは、多くの学校で努力を求めるので(日本には当てはまらないが)、誘惑に負けずに一生懸命働く能力というメッセージを送るにはある程度有用かもしれない。時間を潰すためでもあるが、主として時間を消費するだけなら大学生活は一時期に凝縮され過ぎている。

実際のところ、学生に人的資本を付加するのが大学の役割である。そこには、モチベーション、視野の広さを養うこと、そして人脈という、授業では伝えることができないものがある。恐ろしく非効率な高級ブランドの仕組みではない。大学は、豊かな国々の優秀な人材に不足している人的資本を構築する真のテクノロジーなのである。


編集部より:この記事「College is mostly about human capital, not signaling」はノア・スミス氏のブログ「Noahpinion」2012年6月11日のエントリーより和訳して転載させていただきました。快く転載を許可してくださったノア・スミス氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は、同氏のブログをご覧ください。