見直されるか、新聞の価値 --- 岡本 裕明

アゴラ編集部

新聞を読まない人が増えています。私の周りでも「ネットで情報ゲットするから」とか「新聞って邪魔じゃない」と、もやは新聞を取るのと家電(家庭の固定電話)は時代の流れでそのポジションがどんどん隅に追いやられている気がいたします。

97年には一般紙の朝刊発行部数は4726万部。それがボディブローのようにじわっと下降線を辿り、2011年には4409万部となっています。グラフで見れば2008年辺りからの下降率が高くなりつつあります。その昔、日本の朝食の食卓にはご飯と味噌汁と朝刊があったのですが、もはや、過去のピクチャーとなってくるのでしょうか。


私も確かにインターネットの情報は重視しますが、情報の中身が薄く、ネットニュースだけ見ていたら世の中の事を深く知ることはできない気がいたします。一方で情報過多の世の中ですから一昔前より何倍も増えた情報量を手短にさっと見通すにはこのような情報配信は威力があります。

例えば有料の日経新聞電子版。いわゆるネット画面特有のタイトル表示の羅列と紙面をそのまま見るような形の二通りの選択がありますが、紙面配列を選ぶ人は少ない気がします。私は海外で新聞そのものを宅配としてとっていますので一日遅れの新聞がドアの前に置かれています。何故「古い情報の新聞」をわざわざ取っているのかと聞かれることもあります。理由は簡単で紙の新聞を読むと全然違うものが見えてくるのです。

新聞には紙面レイアウトという見せる技術があります。強調したい記事、重大記事、悲しい記事、楽しい記事などがそれぞれフォントやそのサイズを変えながら強弱感を作り出しています。ですので日経電子版で上から下に記事のタイトルを見流したとき、その記事の重みが伝わってこない為見過ごしている大事な記事がかなりあるのです。

もう一つ最近の新聞で注目すべき点は編集委員の活躍ではないかと思います。その昔、「新聞の意見を全面的に出しているのは社説だからこれを必ず読むこと」と言われたのは私の就活の頃だったと思います。今、紙面を充実させているのは編集委員の事件や出来事に対する深い解説です。そこには今までニュースとしては知りえなかったあっと驚く事実や裏話がゴマンと出てくるのです。

例えば7月8日(日曜日)の日経2面の風見鶏で「(中国の)丹羽大使だけでない悲劇」が特別論説委員の手で書き下ろされています。「丹羽大使は正直な人である」という書き出しにそれが何故悲劇なのか、そして同じ状況になったのは丹羽大使だけではないという論説委員のよく調査し、含蓄ある切り口は素晴らしいものがあります。実名新聞記者とのやり取りを交えたその内容は読みやすく、なるほど、こういうことなのかと認識させられました。

新聞にはいわゆる論説やコメント、解説などと称して二桁近くの新聞独自の記事が満載されています。私は新聞の価値はこれに尽きると思います。海外の新聞でも事実記事より編集委員が書く囲みの方がはるかに面白いのです。ウォールストリートジャーナルでもワシントンポストでもフィナンシャルタイムズでも皆同じで私がバンクーバーで購読する新聞でも事実記事よりコラムに目が先に行きます。

新聞業界も生き残り競争が激しくなってきたわけですが、我々の認識が「新聞は情報を伝える媒体だ」と思っていたらそれはもはや間違いであると断言しても良いと思います。分かりやすい例えとして商社は商品の介在ビジネスで儲けていると思うのと同じです。口銭稼ぎの商社が冬の時代を乗り越え新しい商社に生まれ変わったとき、その経営体質はまったく変質し、強固なものになりました。

新聞業界も同じで今、体質改善の真っ最中なのです。単なる情報(ファクト)を伝える媒体からその先を読み込む戦略的パートナーという位置づけになってくれば新聞の冬の時代に春の訪れがあってもおかしくないと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年7月11日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。