小沢健二氏のエッセーが8000以上もRTされて、私のところにも飛んできた。話は単純で、反原発デモを「対案がない」と批判するのはおかしい、というものだ。
音楽では、楽器も弾けない人に「あのアルバムは駄作だ!」なんて批判されるのは普通です。それに対して僕らが「じゃあ対案は何だ? 言ってみろ! お前が良いアルバムを作れないなら、黙ってろ!」とやり返すことがあるでしょうか?
反原発デモは、対案を出している。このたとえでいうなら、彼らは「駄作だ」と批判するだけではなく「お前はアルバムを作るのをやめろ」と言っているのだ。「原発がいやだ」というだけなら害はない。誰でもいやに決まっている。反原発デモは「すべての原発を止めて損害は国民が負担しろ」という対案を出しているから危険なのだ。
大江健三郎氏は、外国人特派員協会で「原発事故の原因は日本人の国民性にある」という国会事故調の報告を賞賛し、「日本人の戦後の国民性を再構築しなければならない」と主張したそうだ。おっしゃる通り、大江氏のように「非武装中立」や「原発の即時全面停止」などという心情倫理を振り回し、そのコストを他人に負担させる戦後のフリーライダーこそ清算が必要だ。
社会が大きくなると負担と受益の関係がわかりにくくなるので、このように他人にただ乗りする誘惑が大きくなる。それは短期的には合理的だ。小沢氏や大江氏のように裕福な芸術家には、電気代が上がることなんてどうでもいいだろう。原発の停止で計画停電になろうと、GDPの1%以上が吹っ飛ぼうと知ったことではない。それは国民が広く薄く負担するので、一人一人にとっては大したコストではない。
しかしその社会的コストが蓄積して1000兆円の政府債務になると、国家を押しつぶす。ここまで来ても増税反対とか原発を止めろとか言っている人々は、国家を破綻させろという対案を出しているのだ。