いじめ事件(その3)--- 池田、内田両教授の主張への疑義!

北村 隆司

内田先生の「いじめ事件」に関するブログを読んだ池田先生が、テーマである「いじめ」の話はともかく、ペダンティックな飾りとして持ち出す「思想」的な話が間違いだらけだとこっぴどく批判して居られる。

この批判は別として、池田先生の「教育は競争の装置である」と言うご意見に少し疑義を挟みたい。


私は、日本の教育の本質的な問題は、学校と言う「装置」を選ぶ自由が奪われている事で、文科省の統一方針で「競争の装置」をいくら改善しても意味がないと思っている。

「学校選択の自由」がない日本の教育制度下での「競争」は、肝心の競争目的が不在になり、「同床異夢」状態を招き、内田先生が指摘する「相手を蹴落とす」競争に陥る危険もなしとしない。

「機会平等」を前提にした競争社会の米国では、憲法で国家の教育への関与を厳しく制限し、教育は地方の専権事項になっている。そのため、連邦教育省は「金は出せど、口は出せず」、結果として「学校選択」の自由が最大限に保障され「アメリカンドリーム」を支える「揺り篭」の役割を果たしている。

公立校も普通の公立校、バウチャースクール、チャータースクール、マグネットスクール等色々で、その他、一般私立校以外にも、モンテッソーリ・スクール、スタイナー・スクール、ミリタリースクールなど独特の教育理念を掲げた学校が多数存在する。これだけ豊富な選択手があっても尚、組織された学校は画一的だと考える家庭が増え、ホームスクールも盛んになった。

少し本題から外れるが、全米で卒業生から2人以上のノーベル賞受賞者を輩出した高校は、7名を輩出したブロンクスサイエンス高校以下13校あるが、大抵は移民の子弟が多い地区の公立校で、生徒層の多様さが「切磋琢磨」に貢献している事が解る。13校の中で、エリート階級の好む私立の名門校は、2名を輩出したフィリップエクゼター校のみで、東大合格者の数を争う日本の競争とは質的に違う様に思う。

例え話で恐縮だが、仮に東大の試験科目から数学と英語を外し、マラソンと水泳を必修にしたら、合格者の中身は一変するのは当然だが、中身より「ブランド」に憧れる日本では、それでも「東大は優秀」だと考えるに違いない。「優秀」の中身も考えないくらい価値観が劣化した日本で、価値の基本を教える教育を変えるのは「カルト信徒」を折伏するほどむずかしい。

何をしたいと言う「夢」より、「地位」を求める画一的な志向の強い日本では、肝心の親たちが「志を同じくするもの同志が、同じ目的に向い切磋琢磨できる教育機関」に何の憧れも持っていないことも、日本の国際的な「地位」を落としている一因ではなかろうか。

競争重視で一貫している池田先生に比べると、内田先生の考えは、反競争では一貫していても、その理由は薄弱で、その他の教育のあり方については「日替わりメニュー」みたいな変幻自在振りで、捕らえどころがない。

実例を挙げると、「大津市教育委員会が今回の『いじめ』を必死で隠蔽しようとしたのは『業務を適切に履行していない』がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの『いじめ』のターゲットになることを恐れたからだ」と、教育委員会制度を厳しく批判しておられるが、それなら、「橋下主義(ハシズム)を許すな」等という週刊誌紛いの本など書かず、最初から橋下氏に賛同して、教育委員会制度の不全を批判していれば、赤恥をかかなくて済んだ筈だ。

内田先生は又、「『いじめ』というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果であると主張され学校教育は、お互いを競争させ、級友たちを潜在的な『敵』とみなす教育をするために、結果として『いじめ』が導き出される」と明快に説明している。

それだけ解って居られるのなら、具体的解決策を教えて呉れるのが「いじめの犠牲者」に対する義務だと思うのだが、何処を探しても先生の具体策は出て来ない。

更に、「学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで『子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい』としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません」等と競争の目的も特定せずに、競争その物を悪だと決めつける様では、オリンピックなどはもっての他と言う事になる。

勿論、学校選択の自由だけで全てが解決される訳ではないが、選択が自由になれば、「喧嘩を当たり前」「いじめも『自殺』との因果関係がはっきりするまでは許容範囲」などと言う学校には、通う生徒がいなくなる事は確かだ。

内田先生をはじめ「ハシズムを許すな」を書かれた先生方は「政治は教育に介入してはならない」と主張されたが、教育に介入してはならないのは「権力」や「党派的イデオロギー」であって、これ等の介入を防げるのは「政治」以外には考えられない。

現に、近代国家で教育に政治が介入しない国を、私はは聞いた事もない。先生方が「教育への政治介入反対」を合言葉に開いた「反ハシズム集会」も、立派な政治的介入で、教育制度に関するこの種の政治介入は、大いに歓迎すべきである。

政治はさておき、親や教育者が「いじめ退治」に貢献するには、内田先生の様に物事をこねくり回すより「自由とわがままとのさかいは、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」と言う福沢諭吉の教えや、紛争解決手段を決闘から言論に変える事を民主主義の一丁目一番地に据えた英国の議会制度は、与野党が「二本の剣の長さ」に離れて論戦する象徴的な議会設計をした史実を、繰り返し教える方が有効だと思う。