待ったなしの「集団的自衛権」

松本 徹三

私は長い間「安全保障問題」を現時点での政治の主たる論点にするのにはあまり賛成ではなかった。経済運営については「大きな政府(社会保障重視)」か「小さな政府(市場経済重視)」いう基本的な方向性の違いが存在し、財政破綻についての危機意識も人によって大きく異なっている上に、最近はこれに加えて「原発問題」が世論を二分している。これに安全保障問題までも絡むと、変数が大きくなりすぎて、有権者が判断に迷う事態を招くだろうと懸念していたからだ。

しかし、昨今の世界情勢、特に「お隣りの中国の国内事情」に思いを馳せると、そうも言ってはいられなくなった。


現在の日本経済は対中関係の如何で大きく影響を受ける状況にあるので、政府や国民が「短期的な利益」に捉われたり、「目先の問題の回避」に気を取られすぎたりしてしまうと、千載に悔いを残す事になる恐れなしともしない。また、これまでは日本の事だけを考えていればよかったのだが、ASEAN地域での海上紛争が顕在化する一方で、アメリカが広域でのネットワーク防衛戦略に興味を移行させている現状を見ると、日本だけが蚊帳の外におかれてしまう危険性もないとは言えない。

ところで、日本に数多くいる中国嫌いの人達は、「中国国内の権力闘争がやがて経済破綻を招く」というシナリオに秘かに期待をかけている様なところが見受けられるが、私は全くそうは思っていない。

勿論、「急速な経済発展の見返りに極端な格差社会を作ってしまった」という問題がいつかは弾けて、多くの混乱を生み、国全体が何度かの経済危機に見舞われるという事は大いにあり得るだろう。しかし、幾つかの「天安門事件」はあっても「文化大革命」はありえないだろう。

地方政治で実績を挙げた人達が形成する中国政府の指導部は、基本的に統治能力が高く、こういう危機を上手く乗り切って、長期的には安定した先進国型の経済を全国に展開する事ができるだろうと私は見ている。経済が安定すれば、徐々に民主化を進める余裕も出てくる。韓国だって、「漢江の奇跡」と呼ばれた経済成長を成し遂げたのは朴大統領の軍事政権時代だったが、その後十年も経たぬうちに普通の民主主義国家になった。

しかしながら、この過程の中では、相当激しい権力闘争が生じる事は避けられないだろう。そうなると二つのことが起こる。一つは「軍の発言力が増す」事であり、もう一つは「国民の不満を外に向ける動き」が出て行くる事だ。

全ての組織は膨張本能を持っているから、政治のリーダーが自分達を抱き込もうとしていると知れば、軍はその見返りにより大きな軍事予算を求めるのは当然の事だ。軍備が増強されれば、ついそれを使って見たくなるのは世の慣いだ。

後者の可能性については今更言うまでもないだろう。天安門事件後に江沢民が「愛国的な対日解放戦争」に国民の目を向けさせる教育に力を入れさせた事実は、既に多くの人達が知っている。現在だって、「反日」が不満分子のガス抜きに使われているケースは数多く見られる。

日本にとって、「中国との互恵的な友好関係の維持」が最も重要な外交上の課題ある事は言を俟たない。それ故に、私は、事あるごとに露骨な言葉で国民の反中感情を煽る一部の人達を、「国益を大いに害している」として非難している。しかし、その事は「現時点では中国が日本にとって最大の潜在的な脅威である」という私自身の基本的な考えとは何ら矛盾するものではない。

ずばりと言えば、中国は、何時如何なる時でも、あらゆる方法で日本に揺さぶりをかけ、自国にとっての経済的なメリットを追求する事が可能であるし、そういう事が現実的には起こりえないと断ずるのは楽観的過ぎる。

中国軍が現実に行っている海軍力の大増強は、彼等にとってはいわば当然の事であろう。目的は、第一には「海洋(海底)資源の確保」であり、第二には「シーレインの確保(海上封鎖への対抗)」であり、そして第三には「海外進出企業の保護とASEAN地域等における親中勢力の支援」だろう。(空母の建造は戦略的合理性の観点からはかなり疑問だが、ASEAN諸国やインド、場合によれば日本に対しても、十分な「威嚇効果」があると踏んでいるのだろう。)

数週間前にプノンペンで行われたASEAN諸国と中国の会議では、「共通の行動規範」を定めようと期待していたASEAN諸国側の思惑は、中国側に簡単にいなされてしまった。中国側は、「そんな話は何もこんな場で議論せずとも、それぞれに二国間で話し合えば済む事だ」と主張したわけだが、これによって図らずも、「Divide and Conquer(相手を分断した上で征服する)」という中国側の古典的な戦略が露呈されたと言ってもよい。

ベトナムもフィリピンも中国と1対1で対決したのでは、始めから勝てるわけはない。問題の島に、夜陰に紛れて武装した中国人の「愛国者」集団が上陸して五星紅旗を掲げ、その島の周りを強力な中国艦隊が遊弋したら、ベトナムやフィリピンに単独で出来る事は殆どないだろう。

もしも実際にこういう事が起こったら、日本は国としてどういう行動に出るのだろうか? これは海外における二国間の紛争なのだから、勿論日本が海上自衛艦を派遣する事など出来るわけはない。せいぜいベトナムやフィリピンが国連に提訴するのを支援するぐらいが関の山だ。「米国が当然何等かの行動に出るだろうから、日本は静観していればよい」というのが大方の考えとなるだろう。

しかし、それでは、もし同じ事が尖閣列島で起こったらどうするのか? 上陸するのは、本当の素性はどうであれ、表面的には「魚釣島を『昔からの中国固有の領土』だと固く信じ、それを不法に占拠している日本人が許せず、義憤に駆られて捨身で愛国的な行動に出た一般市民」だ。変を聞きつけて、強力な中国艦隊隊は「自国民の保護」の為に、島を取り囲んで事態を注視するだろう。

日本政府は、当然この様な仮想の事態を想定して、何等かのシミュレーションをしていると思うが、それがどういうものなのかがとても知りたい。もしこの様な事態が起こったら、日米間ではどのような事が協議され、米軍がどう出るかも極めて興味深い。

長きにわたる冷戦時代においては、中ソ戦争が勃発寸前だった一時期を除いて、中国は常に米国の仮想敵であり、米国側は「封じ込め」「巻き返し」等の戦略を練るのに余念がなかった。勿論、その間、米国は常に心秘かに日本がその最前線に立ってくれる事を期待していた。しかし、その頃には、日本には「非武装中立」を掲げる一大勢力があり、日本国内の世論は大きく二つに割れていた。多くの学生を巻き込んだ「安保闘争」等はその中で起こった事である。

この時代、「明確に西側体制の一員となる事」を国益と考えた自民党やその支持者が国民の過半数を占めたのは事実である。しかし、「非武装中立派」には、十分な理論的な根拠があった。そもそも、この時代には、資本主義体制と社会主義体制の何れが経済的に成功するかはまだはっきりしていなかったし、共産主義を主導した中ソの全体主義体制の「独善性」や「非効率性」もまだ露呈はしていなかった。

対立する米ソの二大勢力がもし戦端を開けば、西では東西ドイツが最前線になり、東では韓国と日本が最前線になる。米国はもし形勢不利となれば、日本と韓国を捨てて太平洋諸島に防御線を移し、欧州戦線に主力を傾注するという選択肢を持っていたが、日本は全土を焦土にされ、再び敗戦の憂き目を見るしかなかった。仮に形勢が米国に有利であったとしても、日本の主要都市が破壊される事は防げず、前線では米国人以上に多くの日本人の血が流されるだろう。「こんな馬鹿げた事はない」と多くの人達は考えていた。

これに対し、もし日本が「非武装中立」を貫いていれば、米国は始めから防御線を太平洋諸島に下げるから、日本人の血は流れず、最悪時でも、日本が共産化してソ連の衛星国になるだけだ。これが非武装中立派の論拠だったわけで、徹底してソ連や共産主義が嫌いな人達を除けば、かなり多くの人達が「成る程、まだその方がマシかなあ」と思っていた節がある。(勿論、非武装中立派の中には、秘かにソ連の衛星国になる事を望み、その中で自己の栄達を考える連中もいなかった訳ではないが。)

しかし、今や時代は大きく変わった。冷戦は終わり、世界大戦の可能性は遠のいた。これからは、多くの紛争が局地的なものに留まるだろうと見られている。その一方で、イスラム原理主義者との関係作りを大きく間違えたのが祟って、一時は圧倒的な力を持っていた米国の力は弱まり、もはや二正面作戦の遂行はとても無理な状態となった。

結果として、中国にアジア市場を支配される事を何よりも恐れるに至った米国は、欧州、中近東、アフリカでのプレゼンスをたとえ縮小してでも、アジア地区でのプレゼンスを維持する戦略へと移行しつつある。具体的には、アジア全域を一つの集合と考えて、自らをこの要として位置付けることにより、中国の膨張主義を牽制する事を考えている訳だ。

それに対し、現在の日本人と政治的な指導者の多くは、相当にセンスがずれている。意味不明な「友愛主義」を掲げた鳩山元首相と、自らの政治力の拡大の為に中国が利用出来ると考えた小沢元幹事長は、「日本と中国と米国が正三角形の関係にある」という「夢想」に基いた戦略に走ろうとしたが、勿論、実際の日本にはそんな力はない。

仮に「経済力(技術力と生産性を含む)」「人口(市場規模と労働力)」「軍事力(国際的影響力)」の3要素で国力が計られるとすれば、日本は、最初の点においてこそ「現状では中国とまあまあ互角」と考えても、次の二つの点では比較にならないほど影が薄い。日本に韓国とASEAN諸国を併せれば、第二の点でも互角に近づくが、第三の点まで含めば、中国に対してなお甚だしく劣勢である。つまり、「米国の存在なくしては、アジア全域は中国の影響下に組み入れられてしまわざるを得ないだろう」という事だ。

一方で、日本は、今や米国とは利害の対立は殆どないと言ってよい。米国が推し進めたい「自由貿易」「国境を越えた投資の拡大」「法と正義」「民主主義」「人権」等々の何れに対しても、殆どの日本人は特に違和感を持っていない。かつては、植民地競争に共に遅れて参加した国として、中国市場を巡るライバルであった日米両国間には、基本的な「利害の相反」があったが、今は殆どの関係が「相互補完」であると言ってよい。

前述したように、日本には以前から「米国の世界戦略に巻き込まれる事を恐れる人達」と、「米国に見捨てられて孤立する事を恐れる人達」が拮抗してきたが、中国の台頭と共に、現在では後者の数が増して来ている様に思える。しかし、残念なのは、この人達には、ひたすら米国の鼻息を伺うしか能がない様に思える事である。要するに「国際社会の重要な一員」としての「自覚」や「責任感」がない。

本当に必要なのは、「日米関係」という狭い視野だけでものを見るのではなく、日本が「アジア地域の平和と共存共栄のシナリオ」を自ら考え、関係諸国(中国を含む)に積極的にそれを訴えていく事だと思う。そういう姿勢があってこそ、初めて米国もASEAN諸国も日本を真に頼りになる隣人と見做すに至るだろうし、日本だけが孤立する恐れもなくなるだろう。これは、同時に、「中国に甘く見られるリスク」が少なくなる事をも意味する。

そして、それを実現する為にどうしても必要なのが、一にも二にも、「集団自衛権」をベースとした「集団(ネットワーク)安全保障体制」の確立なのだ。もはや躊躇している時ではない。これには別に憲法改正が必要だとも思われないので、直ちに第一歩を踏み出すべきだ。