教師のミッションは過大だ―「金八先生」に期待しない制度を―

高橋 正人

大津市のいじめ自殺事件では、教師に対する非難が噴出している。いじめの存在を示すシグナルがあったにもかかわらず、解決に向けた行動をとらなかったことへのバッシングである。

大津市教育委員会のアンケートによれば、「先生も見て見ぬふり」、「あまり対応してくれなかった」という回答が見られる。これが事実だとすれば、とんでもない話だ。

しかし、なぜ教員は本気で動いてくれなかったのだろうか。


教員に対して過大なミッションを課していることが原因の一つと考えられる。大津市の事件でも、多忙な日常業務の中、深く考えずに「とりあえず静観」という態度を多くの教員がとったのではないか。

1.教員の仕事・ミッション
教員に課せられた仕事は大まかに2種類ある。教科指導と生活指導だ。

教科指導は、授業の実施に加え、授業の事前準備やテストの作成・採点などである。生活指導は、クラス運営、行事(運動会、修学旅行など)や部活動での指導などを通じた総合的な道徳教育だ。服装の乱れへの注意など細かい仕事も含まれる。もちろん、いじめ問題への対処も生活指導の一部である。

教員は、勉強をしっかり教えつつ(教科指導)、生徒を精神面からも立派に育てなければならない(生活指導)。

2.教員の労力が分散している
一般的な教員は、クラス担任として数十人の集団をケアし、同時に教科担当として複数のクラスを教育している。しかも、部活動では学年を超えた全く別の集団も指導しなければならない。まるで複数の中小企業を率いているようなプレッシャーが掛かっていることだろう。

特に中学生の段階では、教科指導と生活指導の両方に力を入れなければならない。教科内容は小学校ほどやさしくないため、授業前の準備を入念に行う必要がある。また、高校生ほど精神的に成長していないので、生活指導でも教員が手取り足取り面倒をみなければならない。

ある公立中学校の校長の話によると、中学教員の労力の理想的な配分は、教科指導に60%、生活指導や雑務に40%といったところらしい。やはり、教科・生活指導の両方に偏りなく力を注ぐ必要があるようだ。教科指導と生活指導の折り合いをうまくつけ、日々の業務をなんとか回しているというのが実情なのだろう。

3.金八先生を期待するな
労力が分散している中、いじめ問題に割くことができる十分なリソース(時間、気力、体力)が個々の教員に残されているのだろうか。プライベートを捨てて授業も生活指導も熱血的にこなす「金八先生」は別として、普通の先生は余力などないだろう。「金八先生」に誰もがなれるわけではない(し、なることを社会的に強要するのも無理がある)。

平均的な教師でも十分なパフォーマンスを発揮できる仕組みを構築しなければならない。

4.分業による効率化
教科指導と生活指導は分業できるのではないか。

教科指導にかかる労力は固定費的な意味合いが強い。授業を聞く生徒の人数にかかわらず、ほぼ同等の準備時間がかかる。生徒が一人だろうが千人だろうが、プレゼンの準備の労力はそんなに変わらない。

ということは、一人の教員がなるべく多くの生徒を指導する方が効率的だ。現状のように、対面での講義にこだわって、全国で大勢の教員が同じ授業範囲の準備をしているのは非効率である。ネット中継や録画などを活用して、説明のうまい少数の教員に講義の仕事を集中させてはどうか。

講義を担当しない教員は、個別の質問対応や宿題の進捗管理くらいの仕事で済むようになる。教科指導の負担をかなり軽減することができる。

生徒にとっても、説明の下手な教員の対面講義より、説明のうまい選抜教員による中継講義の方が良いはずだ。

一方、生活指導は引き続き相対で対応しなければならない。クラス運営やいじめ問題への対処は個別性の高い仕事である。個別の案件ごとにコスト(時間、労力)が掛かるので変動費的な意味合いが強い。

教科指導の軽減によって浮いた労力を生活指導に振り向けてはどうだろうか。

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教員のリソース配分という観点から制度を見直さない限り、いじめ問題への教員の対応も根本的には変わらないのではないか。教員は「聖人君子」や「スーパーマン」ではない。何でも取り組ませるには限界がある。

高橋正人(@mstakah