入試や大学教育は、学力だけで評価すべきではない --- 小池 良次

アゴラ編集部

以下の文章は2012年9月22日にツイッターでつぶやいた内容を転載するものです。転載に際し、誤字脱字の訂正と意味不足の補足をしています。みなさんの議論に役立てば幸いです。

連続ツイート1(以下連番※編集部注):今日、@ikedanobさんのアゴラ「ペーパーテストをやめたら大学は崩壊する」が棘のように心に引っかかる。ペーパーテストは良いが、ペーパーテストで学生を評価するのは5割ぐらいでいいでしょう。


あとの5割は、それまで何を入試生がやってきたかを評価したい。アメリカで息子2人を育てている僕にとって、ここの教育システムは好きだ。そろそろ上の息子は大学入試の準備に入る。先日、入試コンサルタントと面接した。無知な僕にとって、それは驚きだった。

もちろん、米国でも一般学力(SAT)は重要。でも、言われたことは好きな学科に集中すること。大学の教養課程は専門課程への登竜門であり、最終的にどこの専門課程をでるかで決まる。

つまり、名もないカレッジで教養課程を終わっても、有名校の専門課程に入れれば大正解。米国では入学の際、論文や推薦状が重視されるのは知っていた。しかし、その目的は大学が多様な学生を取るためだったと理解。つまり、成績はそこそこでも、ユニークな学生を重視。

そこで進められたのは、有名校や大きな大学ではなく、小さな大学も視野に入れること。大学に奨学金を申請する訳だけど、奨学金を出すという大学は、その生徒を欲しいと思う印。

ということは、大学側と入試生は奨学金で駆け引きがあるということ。奨学金を出す大学は、入学後もその学生に優遇した教育をすることが多く、結果的に学力がつく。無理に有名校に入っても、良い教育を受けられるわけではない。これにはなるほど!

総ては専門課程で良い大学に入るための戦略を教えてもらった。また、大学が学歴だけでなく、非常に多彩な要素で学生を考えていることに驚き。日本の「一発入試試験、人柄・経歴無視」に育ってきた僕には耳を疑うような話。

なるほど、米国は世界で最高の大学教育システムを構築したと言われるが、そういうことかと納得。これじゃ日本は「ダメになるわ」と思った。その後、米国人の友人と日米文化の違いについて話す機会があった。

日本通の彼は「日本人は勉強ができるけど…賢くない」という意見。僕もそう思う。これは、僕の言葉に変えると日本は単一民族・単一国家で「多様性がない」となる。つまり多様性がない=賢くない。

もうひとつ友人の言葉「シリコンバレーは技術の先進地ではない」も同感。シリコンバレーで先端的な研究や技術開発をしているのは、世界各国から大学に集まってきた秀才達。彼らはアメリカで先端技術を開発する。シリコンバレーはそれを利用する集団。

良いものと良いものを組み合わせて新市場を作ったり、新しい価値を生むのがシリコンバレーの目標。技術を磨くことは手段であって、ゴールじゃない。でも、世界中の頭脳を分け隔てなく集められる米国だからこれができる。

日本でも新市場や新価値を目指す人はいる。だがそれは日本人という単一の価値観に最適化する。ところが世界中から違う人が集まって、年がら年中、価値感がぶつかり合う米国市場は違う。多様性を持つ米国市場で成功することで、海外市場に進める。

つまり日本でいくら優秀な成績の学生を集めてエリート集団を作っても、多様性がなければビジネスでは成功しない─ということ。その観点から考えるとアゴラなどで飛び交う大学論が空虚に感じる。「本質は学力よりも多様性だ」と思う。

アメリカ人は海外旅行をしない。田舎ものが多いと思う。でも、国内市場は世界中の文化がぶつかり合う。人々は意見を戦わせて生きている。一方、日本は単一民族で「阿吽」の呼吸でコミュニケーションする。つまり、わかりあって生きている。

これじゃ海外市場では通用しない。ジャパン・ポップカルチャーとか…日本文化を海外に展開しようとする動きは多いのだが、そこには多様性が潜在的になければ成功しない。ということで、大学の学期が9月から始まる大改革は大歓迎。

優秀でなくても良いから、世界中から学生を集めて「単一的な価値観を押しつける教育システム」にショックを与えて欲しい。その辺から追いかけないと、日本の大学は良くならないような気がするし、日本経済の沈没もとまらない。

小池 良次(在米ITジャーナリスト)
2012/9/22、サンフランシスコ郊外から