「依存と分断」のシステムを超えて(下) --- 武内 和久

アゴラ編集部

システム強化のための3つの論点

これからの日本の医療を考える際の課題の中心は「システムとして最大限その機能を発揮させているか」になるべきだ。右肩上がりのリソース投入が不可能となる中、重要なことは、本来医療がシステムとして持っていた能力を最大発揮し、何を実現すべきかを明確にして、解決に当たることだ。これを3つの論点から考えることを提案したい。


1. 患者・住民ニーズを最重要視
第1は「健康を望む患者・住民のニーズに改めてフォーカスする」ことだ。そもそもの医療の究極の目的に向けて、改めて、プレイヤーの活動のベクトルを一致させることが必須だ。患者・住民の本来的なニーズとは、端的に言えば、「病気にならない、病気を進めない」「疾病や臓器ではなく、人としてケアされる」ことが中核にある。これに向けて全ての資源とプレイヤーの活動を方向付けるべきだろう。

言わば、これまでの「医療(sick–care)」という概念から、予防や疾病管理、介護ケアも含めた「ヘルスケア」の概念へ転換していくことだ。そして、この方向付けの要諦となるのは、プライマリ・ケアの確立であると私は考えている。
日本では、前述した「無関与」の現れとして、医療機関や医師の役割分担は不明確、医療内容や患者のフリーアクセスの名の下で受療行動も完全に放任されている。特に、一次的・日常的な医療を担うプライマリ・ケアの概念と役割は未発達で、先進国の中でも極めて特異な状況だ。

諸外国では、プライマリ・ケアは「家庭医(GPやfamily physicianと呼ばれる)」として明確に位置付けられることが多い。それらの家庭医は、臓器別・診療科別ではなく、患者を「人」として総合的に診療する能力を専門的に養成され、住民の日常的な医療ニーズの8~9割に対応する。例えば、既往歴、遺伝的状況のほか、患者の生活状況等も考慮して診察が行われる。慢性疾患の管理(例えば血圧の管理や食事制限など)についても適切なアドバイスを与え、より細分化した専門領域の医療(手術や入院を伴うもの)が必要な場合は、大規模・高次の医療機能を持つ医療機関に紹介をするという流れで、患者を個人としてトータルにケアする仕組みだ。

日本では、プライマリ・ケアの概念さえ確立されておらず、それを担う医師の能力も定義されず、そうしたケアを求める患者・住民のニーズに応えられていない。また、プライマリ・ケアは、入院中心・急性期中心のモデルから、在宅医療や介護との連携といった方向へ医療モデルが変容し、看護師はじめ多くの医療従事者と協働して患者を支える方向に向かうためにも不可欠だ。「ケア」というとおり、医療単独、あるいは医師単独で患者を治し、支える時代は終わった。

2. プレイヤーの潜在能力を最大限発揮
第2は「プレイヤーの潜在能力を最大限発揮する」ことだ。プレイヤー間相互の協働と牽制の関係を作り、各プレイヤーがより費用対効果と患者の満足度の高いヘルスケアを提供できるシステムとなるよう、その機能を発揮させることだ。
医療従事者が不断に能力を高め、サービスの質を高めること、患者や地域住民が医師を支え、大切にすること、保険者が患者の不適切な受療行動をモニターし、財政にも医療機関にも過度の負担がかからないようにすること、行政が予防や検診活動を奨励し、地域の医療機関の役割分担について議論をリードすることなど、プレイヤーそれぞれが自分の立ち位置から努力し、機能を発揮することが大切だ。

このダイナミズムを産み出す大きなテコは、情報の力だろう。医療機関のサービス体制や医療サービスの結果(アウトカム)に関する情報を提供していくことは主要国では確立されつつあるが、日本では未だ発展途上だ。医療情報がセンシティブであること、リスク調整や公平な指標設定の難しさに阻害されることなく、この点を患者・住民のニーズへの対応の中心的課題として早急に組むべきだ。

こうした視点から見ると、日本の医療は、診療報酬を通じた供給側の誘導、利用者負担を通じた需要側の誘導に依拠し過ぎであった。特に診療報酬は、一定の方向性への流れを強めるための「弾み」であるべきだが、供給サイドは、点数を一斉に追いかけ、結果として現場に新たな歪みが生じる。そしてそれを是正するように、再び診療報酬の改定が行われ、また違う方向に一斉に追いかけ始める、という点数と現場のイタチごっこが繰り広げられ、「自律」の芽が育つ土壌が乏しい。

また、日本ではプレイヤーとしての機能発揮の余地が未発達なのは保険者だ。保険者は、1. 国民皆保険という1つのシステムの下で、1、800余りという数に細分化されていること、2. 制度的な自由度が少ないこと(例えば医療機関の選択契約などは不可能、保険者間の競争環境も乏しい)、3. 保険者としての機能を担うべき人材の能力開発ができていないこと(スタッフは医療面での知識や経験に乏しいこと等)から、ほとんど機能を発揮できていない。保険者の機能は、医療システム全体のチェックアンドバランスを図るうえで不可欠であり、日本の現状は異常な状況だ。同時に、プレイヤーとしての医師もまた、自ら専門性を高め、高い水準で専門医を認定する仕組み、そのための教育体制を強化していくべきだ。この点での努力は、医療サービスそのものの付加価値に直結する。

今の日本の医療はこうしたプレイヤー各々の努力と相互のチェックが十分とは言えず、現場と財政に負担が偏りすぎている。結果的に負担を負う市民の理解を得るためにも、直ちにできることを各プレイヤーが同時多発的に開始しなければ、日本の医療に時間を稼ぐ余裕はない。

3. 地域における医療ガバナンスの強化
第3は、「地域における医療のガバナンスを強化する」ことだ。医療をシステムとして機能させるには、バーチャルな文脈ではなく、現実のシステムの「単位」としては、地域で医療をシステムとしてマネジメントすることが必要だ。

今の日本では、市町村が国保を運営し、県が医療計画、病床規制を担うというように責任は分割されている。住民の関与も散発的であり、そこに協会けんぽの支部や後期高齢者保険を運営する広域連合が存在するなど、責任の所在も不明確だ。そこに地元の医師会や大学医学部が関わっており、地域医療のマネジメントは極めて弱い。今後、今は市町村が担う介護サービスとの連携も含め、地域中心への医療サービスにシフトしていく中では、地域単位で医療の在り方を規定し、ガバナンスを図るという視点が重要だ。地域での医療ガバナンスの中核を誰が担うのか、という点には様々な考え方があるが、都道府県がその中心に座ることが適当だろう。国保の都道府県単位での財政運営、高齢者医療の広域連合による運営といった動きを踏まえ、財政面・サービス面での責任と権限を都道府県において一元的に担い、医療政策のイニシアチブを都道府県単位で行っていく方向が望ましいと私は考える。

その際必要となるのは、都道府県で医療政策を担う人材の育成、情報基盤の整備、それを支える権限の委譲、そして他の地域とのベンチマーク指標の設定、言わば医療の「見える化」だろう。ともすれば、これまで都道府県は、医療政策について、全国一律の基準と方向性に受動的に対応し、その構想能力や、執行に当たっての説明能力を発揮してこなかった。これらは、今後の地域における医療のガバナンスの主体という観点から、急ピッチで高めていく必要がある。言うまでもなく、その際には、地域での医療従事者や、大学、患者・市民がパートナーとして協働する必要がある。

同時多発で動き出せ

日本の医療をシステムとして起動させ、プレイヤーの能力を最大限発揮するには、施策、診療報酬などの誘導策を待つまでもなく、医療機関、医療従事者、保険者、患者・市民が能動的に動き出すことが重要だ。その中で他のプレイヤーを巻き込み、変革を促すというダイナミズムが求められる。例えば、今後10年間の取組の工程表を策定し、定量的に達成度を測る目標を設定することが重要だ。日本の医療に残された時間は多くないと筆者は考える。もはや、制度や政府が日本の医療システムを一手にデザインする時代ではない。また、システムの不十分さを現場の奮闘でカバーする時代でもない。貪欲に「不連続」な発想、他業界で培われた思考形態、他の先進国での懸命な取組にアンテナを高くしなければ、あっという間に日本の医療は進化を忘れた存在となるだろう。

今こそ、これまでの「誰が得して、誰が損するか」という表現に集約されるような「依存と分断」のシステムを超え、各プレイヤーが自分の持ち場から、同時多発的に、日本の医療システムを起動させ、動かすには何ができるか考え、動き始めるべきだ。

武内 和久(たけうち かずひさ)
マッキンゼー&カンパニー