戦後ずっと「アメリカの平和」のもとでモラトリアム状態だった日本にも、戦争のリアリティが迫ってきたが、軍用機に「ゼロリスク」を求める平和ボケはいまだに直らない。オスプレイを配備しないために多くの人命が失われるリスクを考えないで沖縄でデモをしている人々には、戦争という目的が見えていないのだ。
本書が日本軍の敗因として指摘するのも、目的意識の欠如である。1941年11月2日に出された「帝国国策遂行要領」は、日米戦争の目的を「自存自衛ヲ完フシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」こととしているが、この「自存自衛」とは何のことか、どこにも説明がない。
一般には自存と自衛は同義で、前者が19世紀の用語だとされているが、自衛のためにアメリカに宣戦布告するというのはどういうことか。どうなれば勝ったことになるのか――それもまったく説明されていない。敵国に侵略された場合には原状を回復することが自然な目的になるが、日本は領土を侵犯されたわけではないので「大東亜ノ新秩序」を守るという漠然とした目的を設定するしかない。
その場合の「生命線」は満蒙からマラッカ海峡まで数千kmに及ぶので、国内の資源ではとてもまかないきれない。そこで資源を南方から略奪して戦力・補給力を維持する方針が決まったが、いつの間にかその手段が「大東亜ノ秩序」を維持するという目的にすり替わった本末転倒の結果が日米戦争だった。
このように目的が曖昧なため、戦争計画は混乱をきわめた。戦力を最大化するためには陸海軍の総力を結集しなければならないが、陸軍と海軍は銃の口径からネジの巻き方まで違い、統合作戦本部ができたのは1945年になってからだった。前線と後方にバランスよく資源を配分しなければならないのに、声の大きい前線の要求が優先されて補給が不足したため、戦死者の半分が餓死だった。
これに対してアメリカは、Dantzigの開発したオペレーションズ・リサーチを使って資源配分を最適化した。これは戦時中は軍事機密だったが、戦後は日本にも輸入され、ORと呼ばれた。普通に訳せば「作戦研究」だが、軍事用語はきらわれるのでカタカナのまま使ったのだ(ちなみに鳩山由紀夫氏の専門がORである)。
ORの特徴は、まず与えられた制約条件の中で戦力を最大化するという目的関数を設定し、それにもとづいて作戦を立て、それにもとづいて補給計画を立てるというように、目的から手段にさかのぼる後ろ向き推論(backward induction)で考えることだ。米軍がこのような戦略的思考が得意なのは、もともと西洋の主権国家が戦争という目的のために組織された機能集団だったからだ。
これに対して日本のような伝統的共同体は、自己を維持・存続すること以外に目的をもたない。武士のような機能集団は社会のごく一部で、その倫理も「お家の存続」といった共同体意識に支配され、対外的な戦争によって領土を拡大するという目的をほとんどもたなかった。『「日本史」の終わり』でも書いたように、これが日本で長く平和が維持された原因だが、多くの地方国家が割拠して経済的に停滞する原因ともなった。
日本人は「空気」を読んでみんなに同調する前向き推論が得意だが、これは日本軍のように「ここで撤退したら英霊に申し訳が立たない」といった場当たり的な行動を誘発し、最適解から大きく逸脱する部分最適に陥りやすい。普通はこのような集団は戦争で淘汰されるが、日本では平和が長く淘汰圧が低かったため、戦争目的より集団内の和を優先する伝統的な風習が残っているものと考えられる。
「脱原発」のように手段を自己目的化する民主党政権も、日本軍と同じだ。その支離滅裂な「原発ゼロ」政策は、戦争のプロである米政府から「論理的に成り立たない」という指摘を受けて後退した。エネルギーの社会的コスト(環境負荷や健康リスクを含む)を最小化するという目的関数に立ち返って全体最適を考えない限り、また日米戦争のように惨憺たる結果に終わるだろう。