春先に何気で買った一冊の本、『商店街はなぜ滅びるのか』(新雅史著)をようやく手にして読み始めたら期待以上によく書けていて素晴らしい内容でした。東大教授だった上野千鶴子さんが推薦していたのも気にはなっていたのですが、読み終わってから気がついたのですが彼は上野学校の門下生だったのですね。
上野千鶴子といえば私は奇妙な思い出があります。彼女のデビュー作『セクシィギャルの大研究』(1982年発行)を持っていたのですが、それを見た女友達が「あなた、こんなエロ本を読むの?」といやな顔をされたことがあります。あれはエロ本ではなく、立派な社会学の本なのですが、写真がたくさん挿入されていることもあり、誤解を招いたようです。
上野氏と新氏の本のことはアエラにも紹介されているようですが、上野元教授に「So what?」と攻められた甲斐もあってか相当よい仕上がりとなっています。
その本を読み、商店街の発展が比較的近世、特に1920年代の関東大震災、金融恐慌、昭和恐慌あたりで食えない農民の新たなる職として発展したという説はなるほどと思います。そして、商店ビジネスは家族を守るという観点にあったがスーツを着たサラリーマンがより魅力的に映り、後継者がいなくなったことをその衰退の理由のひとつに掲げています。
さらに本著では日本型コンビニの発展についてかなり詳述されており、これも大変よく書かれていると思います。
さて、商店を開業するのが起業のひとつの取っ掛かりであり、その動機が家族を養うため、ということであったとすれば、日本で今、なぜ若者の起業が起きないのか、という問いに対してひとつの解が考えられます。それは守るべき家族がいない、ということであります。
晩婚化とミーイズムの中に育った若者はデフレ下において細々とながらも環境順応する姿勢を見せました。その順応とは与えられた限りある金銭的自由の優先度を自己に照準を合わせた結果、他人に回す余裕がなくなり、それは結婚を回避し、少子化につながるというストーリーであります。無理があるロジックかもしれませんが、一面では当たっているような気がします。同じことは韓国でも生じております。
ということは起業をしたいというモチベーションがもともと起きておらず、受動的人生を享受することで満足してしまっているようにも見えるのです。結果として非正規雇用であろうとも収入はコンビニで食料を買う手段であって現時点での貧困感はなく、将来は見ないようにすることで不安感を自らあおらない様にするとも見えるのです。この点で1920年代の一家離散するような農家の貧困とは相違するかと思います。
これがあながち嘘でもないとすれば、起業という動機は「何がしたいか」というより「自分はこれからどうしたいのか?」という精神論が先にあるのかもしれません。
もうひとつ、起業が否定的になりやすい理由のひとつに資本の力が零細の起業家のマインドを消沈させたということは言えないでしょうか? 新氏は著書でマルクスの『共産党宣言』の一文を例に「世の中には資本家とプロレタリア階級しか残らないとあるが日本では零細小売業が発展した」とあります。確かにそれは正しいのですが、今日に至って家族経営のコンビニも含め、資本の力あっての商店となっています。
今や、学習塾を経営するにしても教育プログラムを提供してくれるチェーンに頼らなくては厳しい世の中であります。その昔は近所の子供を集めて机と黒板さえあればどうにかビジネスができた時代もあったのです。
アメリカではエンジェルというお金を出してくれる仕組みがあるため起業家が育ちやすい、ということはよく言われますが、その起業の規模が大きくなりいきなり飛び箱10段に挑戦する、という感じに見えてなりません。
時代の流れと共に起業が難しくなってきたことは事実でしょう。今後、起業家はますます少なくなるのでしょうか?
今日はこのぐらいにしておきます。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年10月15日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。