石原都知事国政復帰への期待と懸念!─その(1)第三極統合への期待

北村 隆司

「今の政治構造をシャッフルする必要がある」として、任期途中で知事を辞任したた石原氏に対する世論は、「責任を放棄した」と言う批判と「この国を変えようという考えを支持する」に2分されている。

私自身は、より大きな事に挑戦する為の辞任は、責任放棄には当たらず、国政レベルで日本の再建に貢献して貰えるのであれば、大いに歓迎したいと思う。


石原氏の主張には賛成できない面も多々あるが、地方分権の推進や国家会計の複式簿記への転換等の主張には大いに賛成である。

ただ、提携を目指している維新の会と石原氏では「憲法問題」「原発政策」「TPP交渉参加」などの主要政策で一致していない事も否定出来ない。

然し、明治維新以降、誰もが達成出来なかった「中央官僚支配から国民を解放する」事で一致しているなら、「ヒトラーを倒すためなら、地獄の悪魔とでも手を握る」と言い切ったチャーチルの様な真剣さで腕を組んで前進して欲しい。

現実と理想、総論と各論の調整は時代や場所を問わす難しい。それを取り仕切るのが指導者の役割だ。みんなの党には期待していたが、税体系のあり方や長期的なエネルギー政策の青写真もなしに、消費税増税や原発の可否を踏み絵にした「排除の論理」を振りかざす旧式政治家の渡部氏を党首に頂いていたのでは、指導的な役割は期待できない。

そこへ行くと、自分の嫌いな毛沢東の「矛盾論」まで引用して、目前の小さな矛盾より、目に見えない根本的な矛盾に取り組むと誓った石原氏や、常に原点を追及する橋下両氏に日本の方向性を作ってもらうしか方法はない。

中央官僚の圧制から国民を解放するには、先ず、徹底的地方分権から手を付けなければならないが、東京、大阪の首長として中央官僚の妨害に悩んできた石原、橋下両氏は適役である。

その他に論議されるべき基本路線としては、「大きな政府」か「小さな政府」か、「配分重視」か「活力重視」か、「日米同盟基軸」の国防政策の是非等の国の根幹に関わる問題がある。

「憲法」のあり方も, 三者の意見が一致していない重大項目だが、石原氏が日本憲法は米国製だから認めないと「内容」より「出目」を問題にする事は、「週刊朝日」と目糞、鼻糞の低次元の論議は感心しない。

日本の憲法は民主主義の基本中の基本である国民の権利を異常に制限した解釈が横行しており、これを米国製と言われたら、米国は迷惑至極である。

石原氏が問題視した中央官僚の貧しい想定力の根本原因は、日本憲法の出目にあるのではなく、法体系がポジテイブリストにある事だ。

この点は、橋下市長が指摘している様に、日本の法体系を先進国が採用している、ネガテイブリストに転換して権力を制限する事から手をつけるべきである。これを実施するだけで、国民は権力の無責任から解放され想定力は増し、国家の活性が一気に高まる事は間違いない。

石原知事の憲法廃止論に対し、憲法学者の奥平東大名誉教授は 「平和憲法の理念は多くの国民に理解され、国内に根をはっている。石原慎太郎氏は、占領軍から一方的に与えられた憲法は改憲しなければならないという趣旨のことを述べたが、中身を無視した形式論で違和感を覚えた。石原氏等は9条をなくしたいのだろうが、そんなことをしたらアジア各国から非難され、国際的評価も落ちる」と述べたそうだが、この主張を読んで、私は日本の老いの原因を知った想いだ。

未だ日本が元気一杯であった1980年代に、結婚式のはなむけの言葉として大流行したサミエル・ウルマンの「青春」と言う詩を覚えている人は多いであろう。

「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。」と言う言葉で始まるこの短い詩は、

人は信念と共に若く     疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く     恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く      失望と共に老い朽ちる

と詠っている。

奥平名誉教授の憲法論には、ウルマンの言う「青春」の要諦は何一つ感じられない。日本がこれだけ老いたのは、奥平教授の様に、長期に亘り権力に奉仕する中に、新陳代謝を怠って来た学者の影響を受けて来たからに違いない。

それに比べ、奥平名誉教授と同世代の高齢とは言え、石原知事にはサミエル・ウルマンが「年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味」と詠った若さと希望を感ずる。

国民に変化を求めて国政に出る以上、石原知事自身も、その粗野な立ち居振る舞いを変える義務がある。今後は、中国をシナと読んで自己顕示欲を満足させたり,恫喝的な言動に走りがちな軽率さを改めるだけでなく、「NOと言える」事に自己陶酔せず、「相手にYESと言わせる」事が出来る指導者に転進する事を願うや切である。

2012年10月27日
北村 隆司