大学が多すぎる

池田 信夫

田中真紀子文科相が大学の新設にストップをかけた事件が、いろいろな話題を呼んでいる。JBpressにも書いたように、彼女のやり方は拙劣だったが、「大学が多すぎる」というのは、官僚も大学関係者も認める事実である。ところが内田樹氏は「大学は多すぎない」と主張する。大学の削減は、低賃金労働者を求める財界の陰謀だというのだ。

なぜ若者たちの平均学歴が低下し、平均学力が低下することを財界人は要求するのか? もちろん、それが彼らに大きな利益をもたらす可能性があるからである。中等教育の内容を理解していないものは大学に入学させないという縛りをかければ、おそらく現在の大学生の3分の2は高卒で教育機会を終えるだろう。そうすれば毎年数十万の低学力・低学歴の若年労働者が労働市場に供給されることになる。

これは内田氏の妄想である。この主張が成り立つためには「企業は職種に関係なく大卒には高卒より高い賃金を払う」という前提が必要だが、そんなお人好しの企業はない。大学を卒業して外食レストランのウェイターになっても、賃金は高卒と同じだ。違いは年齢給ぐらいだが、4年間の機会損失(授業料+賃金)のほうが大きい。現に大学生が増えているのに(非正社員を含む)新卒の賃金は下がっているのだから、財界が大学削減を求める必要なんかないのだ。

「大学生の2/3は中等教育の内容を理解していない」というのは事実だが、内田氏はそれを承知の上で「どれほど学力が低いとはいえ、大学まで出た方がまだましである」という。そのコストがゼロであれば、彼らが大学で4年間遊ぶのは自由である。しかし大学生には、国立・私立あわせて年間1.5兆円(50万円/人)の補助金が支出されているのだ。

特に私学助成は、定員割れになった私大にも学生の数に応じてほぼ一律に配分されており、「悪平等だ」という批判は関係者にも強い。これは「科学技術の振興が必要だ」とか「貧しくて大学に行けない優秀な学生のために補助は必要だ」という反対論にかき消されてきたが、こうした目的は大学に補助金を出さなくても達成できる。

基礎科学の研究には政府の助成が必要だが、それは教育とは関係ない。山中伸弥氏が試験監督までやらされるのも、間違った平等主義である。学生の所得補償は、大学に補助金を出すのではなく学生に出すべきだ。大学の成績に応じて奨学金を貸与し、将来の所得で返済させればいい。以前の記事でも書いたように、大学の私的収益率は高いが社会的には浪費だから、産業としての大学を公的に補助することは正当化できない。

「大学を出たらいい会社に入れる」というのは、もはや幻想である。大企業がいい会社とも限らないし、いま就職する若者が定年までつとめられる確率はきわめて小さい。特に無名私大に行くことは4年間の機会損失のほうが大きいので、高卒で就職するのが賢明だ。人生は学歴では決まらないし、いくらでもやり直せる。むしろやりたいことが見つかってから、社会人教育を受けたほうがいい。