高齢社会への対応策

松本 徹三

日本経済の将来への悲観論の根拠の中の最たるものは「高齢化社会の到来」であろう。団塊の世代が次々に定年を迎え、働き手が減少していく中で、年金生活者が着実に増えていくのだから、経済指標がどんどん悪くなっていくのは当然だ。しかも、この傾向は何も一時的なものではなく、このまま少子化が止められないと、状況の悪化には歯止めがかからない。

残念な事に、これまで日本のお家芸だった製造業は、発展途上国に追い上げられて往年の力を失いつつあり、雇用の受け皿としての比率は縮小傾向にある。この穴を埋めるのが、本来なら比較的生産性の高い情報産業や金融サービスなどであってほしいのだが、現実には、比較的生産性の低い「介護」や「小売、飲食などのサービス業」なので、これがGDPの押し下げ要因になっている上、多くの若者がはれを嫌ってニート化し、ひたすら社会に対する不満を募らせているばかりだ。


外国人労働者の大規模な導入には色々と懸念すべきことも多いが、現在の労働需給のアンバランスを見ると、これは避けて通れない選択肢だと私は考えている。しかし、その一方で、「多くの若者がどうすれば生産性の高い職種につけるか」という問題は一筋縄でいかない。「企業活動の活性化」と「教育・訓練の効率性アップ」が、種々の分野で同時に進められねばならないが、現状ではその兆しすら見えていない。

この様に考えると、当面最も即効性のある施策は「高齢者がもっと働く」という事に尽きるのではないかと、私は最近考えるようになった。私も高齢者の一人だから、その事はかなり深刻に考え続けている。

「60歳を超えたら、これまでの仕事を辞めて悠々自適し、自分自身を見詰め直したり、社会の為になる事をする」というのは理想的な「生涯の生活設計」のように思われる。しかし、現在の長寿社会を見ると、60歳はどう考えても早すぎると思う。自分自身に当てはめて見ると、65歳でも早すぎると感じた。少なくとも70歳ぐらいまでは、多くの人達が「自分はまだまだ働ける」と思っているはずだし、むしろ「出来れば働きたい」と思っているはずだ。

「高齢化社会の問題点」とは、要するに「働いて税金や社会保険料を払っている人達」の比率が減少し、「働かないで年金生活をしている人達」の比率が増加することだ。前者を増やし後者を減らそうと思えば、高齢者に何とかして5年間余分に働いて貰い、年金支払い時期を5年間遅らせれば、この問題は解決する。問題は如何にしてこれを実現するかだ。

しかし、高齢者の問題点は、「働いていない」という事だけでなく、「むしろ働いて欲しくない」と思われている事も多い事を、我々は知っておかねばならない。

高齢者の存在がプラスよりマイナスになる事がある理由は、話が長かったり、動作が緩慢だったり、ITを使いこなせなかったり、意味なく偉ぶったりする事だけではない。過去の成功体験を引きずり、決定がワンパターンになる事の方がもっと大きな問題だ。時代がダイナミックに動いている時に、新しい発想でこれに対応出来るかもしれない若い人が、こういう人達に阻まれて枢要なポジションにつけないとすれば、その組織体は大きな可能性を逸する事になる。

しかし、この様な悪しき可能性を完全に排除した後でも、高齢者がその能力を遺憾なく発揮して、その組織体に大きく貢献出来る可能性は十分にあると私は思っている。勿論、これを実現するのは容易な事ではなく、精緻で周到な制度設計が必要だ。

先ず、単純に定年を引き伸ばしたら、若年層の不満は逆に爆発するだろう。上が詰まってしまって、何時までも自分が上にいけないからだ。それ以上に、今でも高齢者が幅を利かしている日本の多くの会社では、上記に述べた様な弊害が更に増幅されてしまうだろう。だから、人事に年功序列の傾向が強いところや、従来型の組合の力が強いところでは、定年は引き上げるどころか、むしろ引き下げたほうが良いぐらいだ。(勿論、既に「第一次定年」「第二次定年」という制度を持っているところは、その制度を上手く活用すればよい。)

定年後は、これまで働いた企業などでは働かず、全くしがらみのない新しい職場が斡旋されるべきだ。(そうしないと、どうしても周りの若い人達が遠慮をしてしまう。)また、人並み以上の能力や意欲のある人達には、「普通の人達」とは違ったコースを歩んで貰うべきだ。休みたい人に休んで貰うのはよいが、休みたくない人を無理に休ませるのは意味がない。際立って能力のある人の前には、「これは自分にしか出来ないのではないだろうか?」と思うような仕事が時折現れる筈だから、そういう仕事は必ずやって貰わねば困る。

ここでは「普通の人達」を対象にして議論をしたいが、いきなり年金の支払い時期を5年引き上げて、「それまでは自分で働いて何とかしろ」と突き放すのは、やはり少し乱暴に過ぎるように思う。しかし、年金を受け取るのであれば、「健康が許す限りは、その見返りに何等かの社会奉仕に類する事をする」のを義務付けるぐらいの事は、当然やるべきだ。報酬を払わなければならないとなると、どの企業でも人を雇うのには慎重になるが、ボランティアでタダで働いてくれるのなら、常に歓迎されるだろう。

私の知人の米国人で、長らく病院の事務回りで仕事をしてそれなりに偉くなっていた人がいるが、この前この人に会ったら、驚いた事に、80歳を超えているのに未だ週に何日かは違う病院で働いていた。やっているのは洗濯に出す入院患者の寝具やガウンなどを集めて運ぶ仕事で、看護婦さん達の下働きだが、「みんなが喜んでくれる」と嬉しそうで、その仕事がある日をむしろ楽しみにしている様が見て取れた。

考えて見ると、米国人の仕事のやり方(選び方)は、若い時から日本人とは相当違うように思う。日本人は先ず自分が働く「組織」を選んで、その「組織」に忠誠を尽くして認められ、それをバネにその「組織」の中で上に上る機会を求める事が多いが、米国人の場合は、自分の能力と経験が生かせる仕事を探し回り、その仕事を通じて新たに得た能力や経験を、より見返りの大きい仕事で生かそうとする。上司が自分よりはるかに若い人であるといった事は日常茶飯事だから、そんな事は全く気にしない。

言い換えれば、日本の場合は、組織内の人間関係(多くの場合上下関係)といった「Wetな関係」が何よりも重視されるが、米国の場合は、「仕事上の目標」と「自分の能力で生み出した成果」の「Dryな関係」が中心となる。だから、「以前は自分が管理していた看護婦達の下働きをする」という様な事への抵抗感も全くないのだろうが、日本人も同様かどうどうかと問われれば、肯定的に答える自信はあまりない。

しかし、現状は、国の経済状況がかなり追い詰められてきているのだから、高齢者の生活がこれまでのままでよいと思うのは非現実的だと思う。高齢者はもっと働く覚悟をし、為政者は知恵を絞って、彼等にもっと働いてもらえるような仕組みを考えるべきだ。団塊の世代は、間違っても若い人達に「逃げ切り世代」などと陰口を叩かれてはならない。それは恥ずかしい事だと考えるべきだ。

<追記>

高齢者にちょっと辛く当たって「社会奉仕」を求めたのだから、親掛かりでのんびりと遊んでいる若者達にも同じ事を求めるべきかもしれない。韓国の真似をして兵役を課する事まではする必要はないが、下記の様な制度を作ってみてはどうか?

  1. 18歳から22歳までの間に、全ての日本人は、1年間、公共の為に無償で働かなければならない(この間は基本的に集団生活とし、生活費は支給する)。
  2. 学校及び雇用主は、この期間を「休学」或いは「休職(無給)」扱いにする(「休職」になった為に親元への仕送りなどが出来なくなった場合は、国が補填する)。
  3. 公共奉仕の職務は「環境保全」「介護福祉」「国土防衛」「海外協力」の四つの中から選べるものとする。(「国土防衛」には、「救護」や「サイバー攻撃への対応」といった分野も当然含まれるので、体育会系の男子に限られた職務ではない)。

私には、世の中の右傾老人のように、国家意識の高かった昔を懐かしむ気持は全くないが、「今の日本人はあまりに国家意識が薄いのでは?」とは思っている。また、何れにせよ、「若者には色々な世界を見て貰う事が必要だ」と、いつも思っている。