現実的なリーダー論

小幡 績

戦術的に賢い橋下。

いい人の安倍。

信念の野田。

どの要素が一番重要か。

という思考回路で行くか。

それともダウンサイドリスクを最小化するか。

実は後者の考え方は現実的に重要だ。


橋下氏は、アナーキスト。

政府をぶっ壊し、一か八か。自分が英雄になり、権力を掌握するか。

さもなくば、政治をすぐに辞めるか。

本人も一発勝負といっているように、これはリスクが大きい。

この心意気は、政府はどうせどうしようもないから、つぶれたほうが、何もしないでジリ貧よりはましだ、と本気で思っている、自己認識がインテリの都会人のテイストには合う。

しかし、彼らがわかっていないのは、政府は非効率だが、ぶっ壊すよりは現状の方が遥かにましだ、ということだ。そして、橋下氏は、それをわかっていて、確信犯的にやっている。

だから、彼は、統治機構論を展開する。これは実現不可能だから、無害だ。何もぶっ壊さない。同時に、経済政策は、ミクロ的なしかも定性的な議論に終始している。政府は非効率。競争導入。利権がある。どれも言い古された話だが、彼が自信満々に熱意あふれるスタイルで激論をぶつけると、そこは彼の人間的な力であろう、魅力あふれるように、一部の人には移る。

しかし、賢いのは、この議論では、世の中が悪くなる要素はほとんどないということだ。利権が残っているのはごく一部で、彼の挙げる具体例は、誰もがやればいいということで、大阪府で実現していなかった役所の売店のコンビニ化は、中央官庁では10年以上前に終わっている。だから、これも無害だ。

だから、橋下氏は、権力を掌握するまでは、実はリスクが少ないので、本能的に、インテリも警戒を解いている。一番怖いのは、外交問題で、外交になったときは、彼の人間的魅力では、相手はまったく動かない。それで動くのは、おっとりとした平和ボケの日本国民だけなので、彼のスタイルは通用しない。

そのときも、彼は、個人的な魅力とスタンスと国内的なポジションで、権力を維持しようとするだろう。そして、それは成功するだろう。しかし、対外的には致命的な失敗を犯すことになる。

これは同盟を組んだ石原氏の尖閣購入行動とまったく同じで、彼らが気が合うのは当然だが、橋下氏の方がすべてをわかっているから、高齢でナルシズムに浸っている石原氏はうまく利用されるだけだろう。

だから、橋下氏は、外交的な大きなリスクがあり、また経済政策でも大きな危機に直面したときには、正しい判断は出来ないだろう。

これは残念ながら、安倍氏も同じで、安倍氏の責任というよりは、小泉氏の責任だが、北朝鮮拉致問題は、彼らのおかげで永久に解決しなくなったのだ。外交のカードとして北朝鮮が使う価値を高めただけだ。拉致問題はまったく取り合わないことで、カードにならず、彼らが切り札に取っておく意味をなくさせることが唯一の解決手段だ。だから、議論しないのが一番の解決の近道だ。

しかし、彼らは、わかっていて、これをやった。確信犯だ。人気取りでやったのだ。これは政権として、リーダーとして致命的だ。したがって、安倍氏にも大きな外交リスクがある。

本当は、安倍氏本人は普通の理解をしていて、無害なのだが、人がいいだけに、外交も周りの意向を汲みすぎるし、経済政策も、意味不明の日本経済が破滅に向かう唯一の道を歩むような政策を打ち出している。

この理由は余り理解できないが、安倍氏の性格からすると、政権を取り、スタッフがまともな人々になれば、彼らの言うことを聞くようになるであろうから、現状よりはましになるだろう。

しかし、そのときに、まともなスタッフが、官僚というレッテルを貼られ、彼らの言うことを聞いてはいけない、ということになり、現在の政策提言者の意見に固執するようになると(公約に忠実ということにこだわった場合も)、非常に危険なことになるだろう。

一方、野田氏は、解散で男を上げた。

メディアは批判しかしないが、個人的には、絶賛している人があまりに多い。これで野田氏のリーダーとしての評価は、プロの間でも、国民の一部の間でも高まった。

それと同時に、彼は、政策的には、面白くもおかしくもない。社会保障改革を地道にやり、消費税を上げただけで、苦労があるだけで、面白くもなんともない政策だ。なぜなら、反対が多すぎて、自分の手柄としてうまく成立するというシナリオはないからだ。

今後も、彼は、日銀批判など、ポピュリズムで点数を稼ごうともせず、地道に面白くもおかしくもない政策を打ち出し続けるだろう。

したがって、ダウンサイドリスクは極めて小さいリーダーとなり、アップサイドはまったく期待できないリーダーであると言えるだろう。

そのようなリーダーが現在の日本にふさわしいと思う人々がどのくらいいるか。

今回の選挙は、そこを試される選挙となるだろう。

したがって、最も現代的な、あるいはポストモダンな選挙となる可能性があるのだ。