60年安保は、日本の左翼にとって天下分け目の闘いだった。100万人ともいわれる民衆が国会を包囲し、全学連主流派は警官隊と衝突を繰り返し、死者まで出した。しかし新安保条約は成立し、運動は急速に退潮した。このときはやった歌が「アカシアの雨がやむとき」である。
アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光のその中で
冷たくなったわたしを見つけて
あの人は涙を流してくれるでしょうか
これは全学連の闘士の「挫折」を歌ったものとされて流行した。そのころ日本最高の知的エリートだった60年ブントの指導者のうち、生田浩二、姫岡玲治(青木昌彦)、西部邁などは「近経」に転向し、唐牛健太郎や島成郎などは辺境の地に落ち延びた。彼らはマルクス主義が日本では受け入れられないことに気づき、柳田国男などの日本人についての研究が流行した。
岸信介首相は新安保条約の成立後に辞職したが、その後に「所得倍増」を掲げて出て来た池田勇人の率いる自民党に、国民は296議席という戦後最大の議席を与えた――まるで60年安保などなかったかのように。そして「近代的自我の確立していない日本では市民社会は成り立たない」という丸山眞男などの左翼の予想に反して、日本は世界史上にも例をみない高度成長を遂げたのだ。
今回の反原発騒動は、60年安保や70年安保に比べても指導者の知的水準が低く、歴史にも残らないだろうが、彼らの勘違いに対して「民意」が鉄槌を下したことは共通だ。ところがその数少ない指導者だった小熊英二氏はこう語る:
直接制の要素を制度的に組み込むしかありません。だからラウンドテーブルや公聴会など、選挙以外の回路が重要になってきたのです。誰もが身近で決定に直接参加できるためには、決定権と財源のある単位を数千人とか数万人レベルに小さくする方がいい。それが基本のビジョンになります。
脳天気というしかない。彼らの信じていた「民主主義」に裏切られたというのに、それを「直接制」にすれば、官邸前の数千人が国政を動かせると思っているのだろうか。
丸山は60年安保の挫折を契機に、日本人の「古層」についての研究に沈潜した。彼は高度成長を予想できなかったことに左翼の限界を見出したが、前近代的な日本人が欧米を超える経済大国になった謎を解くことはできなかった。しかし今、彼の予想は半世紀遅れで的中したように見える。自立した個人からなる自発的結社とは似て非なる日本企業は限界に逢着し、グローバル資本主義に取り残されつつある。
戦後の左翼は単に戦術的に失敗したのではなく、彼らの掲げた非武装中立や分配の平等などのアジェンダが根本的に間違っていたのだ。それを理解していたのは丸山など数少ない人だけだが、その到達点から考え直すしかない。いまだに直接民主主義に幻想を抱く反原発派は、自分がどこにいるかさえ理解していない。