有馬 純
日本貿易振興機構ロンドン事務所長
経産省地球環境問題特別調査員
よく似た2つの交渉の姿
先日、「国際貿易投資ガバナンスの今後」と題するラウンドテーブルに出席する機会があった。出席者の中には元欧州委員会貿易担当委員や、元USTR代表、WTO事務局次長、ジュネーブのWTO担当大使、マルチ貿易交渉関連のシンクタンク等が含まれ、WTOドーハラウンド関係者、いわば「通商交渉部族」が大半である。
私はその中で唯一の「気候変動交渉部族」であった。これまでの経産省の31年のキャリアの中で在外勤務を含め、国際関連の業務は21年になる。ところが通商政策局勤務は一度もなく、バイやマルチの通商交渉に関与したことはなかった。
現ポジションで日EU経済連携協定の早期交渉開始に向けた関係方面への働きかけを行っているが、実際の交渉を行っているわけではなく、他の出席者の長い通商交渉経験に比ぶべくもない。ということで、いささか場違いな参加者ではあったが、通商交渉と自分が長年従事してきた気候変動交渉を比較することができ、大変興味深いものだった。
2001年にスタートしたドーハラウンドは2011年の第8回WTO閣僚会議で満10年目を迎えたが、2008年7月の決裂以後、目立った進展がないまま停滞を続けている。2011年6月のForeign Affairs にスーザン・シュワブUSTR代表が書いた論文 “After Doha — Why the Negotiations Are Doomed and What We Should Do About It” (「ドーハの後–なぜ交渉は行き詰まり、問題にどのように向き合うべきか」)を読んだ。
「ドーハラウンドは先進国、新興国、発展途上国の相対的な役割分担をどうするのかという国際経済ガバナンスの中心課題に対応できていない」
「交渉開始後、グローバル経済は急速に変化し、ドーハラウンドの先進国/途上国の二分法とそれに基づく交渉構造を完全に時代遅れなものとした」
「新興国は途上国間の市場アクセス改善の議論を避け、途上国すべてが合意できるアジェンダ、すなわち先進国の市場開放義務に焦点を当てた」
「シングルアンダーテーキング(一括受諾方式)により、個々の国が交渉を阻害することが可能になってしまった」
このような興味深い指摘がなされている。この文章の中で「ドーハラウンド」を「国連気候変動交渉」に、「市場アクセス」「市場開放」を「温室効果ガス削減」に置き換えれば、国連気候変動交渉の現状にそのまま当てはまる。グローバルガバナンスがうまく機能していない事例としてWTO交渉と気候変動交渉がよく例示される所以でもある。
4つの違い「成熟度」「早期妥結可能分野の存在」「競争相手」「全体の利益」
しかし、交渉内容はもとより、交渉の質、性格において気候変動交渉と通商交渉とでは大きな違いがあると思う。
第1に制度インフラの成熟度が圧倒的に違う。ドーハラウンドの停滞によってWTOの立法機能は機能不全を起こしているとはいえ、WTOには強力な司法機能があり、貿易紛争の解決に威力を発揮している。またWTOの常設委員会の存在が露骨な保護措置の拡大に一定の抑止力となっていることも事実だ。GATT以来、東京ラウンド、ウルグアイ・ラウンドと合意を積み重ねてきた蓄積は大きい。
これに対して気候変動問題は1992年の気候変動枠組み条約に始まり、通商の世界に比して歴史が浅い。気候変動枠組み条約は温暖化防止の重要性やそのための行動について謳っているが、制度インフラとしての規範力は弱い。条約下の唯一の強制力のある枠組みである京都議定書は、シュワブ論文にある「先進国・途上国の二分法」の象徴のような枠組みであり、今日的意義を失っている。事実、COP18で確定した京都第2約束期間で義務を負う国のシェアは14%に過ぎない。WTOと異なり、機能している制度インフラはほとんどないといっても過言ではない。
第2にドーハラウンドには多くの交渉項目があり、early harvest として早期妥結が期待される分野もある。通関手続きの簡素化等の貿易円滑化交渉がその事例だ(もっとも他の交渉項目とリンクされ、本当に早期合意できるか予断を許さないそうだが)。
更に参加国が75カ国を数え、対象品目の世界貿易の96-97%をカバーする情報技術協定(ITA)等のプルリ合意も本年12月のWTO閣僚会議までの合意が不可能ではない。これらに共通する特色は、先進国、途上国双方がメリットを見出し得ることだ。
他方、気候変動交渉の世界では、途上国が先進国に温室効果ガスの大幅削減を迫ると同時に、資金援助、技術供与を要求するという一方的な構図になっており、先進国、途上国双方がメリットを享受する分野を見出し難い。
換言すればearly harvest が極めて困難である。技術支援、早期資金をearly harvestとするという議論もあったが、これは途上国のみがメリットを享受するものであり、途上国の「食い逃げ」を恐れる米国が強く反発した。鉄鋼、セメント等のエネルギー多消費部門で主要国が効率改善を目指すと言うセクター別アプローチは、ITAに比較的性格が似ているが、国際協定になるほど煮詰まっていない。
第3にドーハラウンドには競争相手がある。ドーハラウンドの停滞を背景にバイやリージョナルのFTA、EPAの議論が活発化している。これを「スパゲティボウル現象」として懸念する議論もあるが、他方、マルチの交渉が停滞している中でセカンドベストとして関心国・地域でのFTA、EPAが出てくることは驚くべきことではなく、少なくとも関係国の間で貿易自由化が進むことにもなる。こうした動きがマルチの交渉自体を活性化させる側面もある。
NAFTA(北米自由貿易協定)合意がウルグアイ・ラウンドの妥結に大きな推進力を与えたのはその事例だ。他方、気候変動交渉にはそうした競争相手がいない。特に途上国の交渉官は、国連以外の場でバイやリージョナルの枠組みを議論することをタブー視する風潮が強い。コペンハーゲンの失敗後、国連交渉への失望感が広がり、G20やMEF等、国連以外の場を活用すべきとの議論も生じたが、新興国、途上国はそれに強く反対した。
しかし2020年以降の枠組みを考えた場合、国連の枠組みが唯一の場になるとは思われず、通商の世界と同様、バイやリージョナルの枠組み、セクター別の枠組み等の複層構造になる可能性が高い。日本が進めている二国間オフセット制度はそうした方向への第一歩と言えよう。
第4の、最も根源的な違いは。通商交渉は全体としてプラス・サムになり得るが、温暖化交渉はマイナス・サムであることだ。中国もインドも工業化が進み、市場アクセスの改善に本質的利害を有している。通商交渉の妥結は世界のGDPの拡大につながり、プラス・サムをもたらす。
上述のようにITAにおいて中国が積極的に交渉に参加しているのも先進国と共にウィン・ウィンの成果が期待できるからだ。これに対して気候変動交渉はゼロサムどころか、地球全体の温室効果ガス排出を削減するというマイナス・サムの中で削減負担をどう分担するかという議論を行っている。いわゆる「炭素スペース」の議論はその典型だ。本来的にプラス・サムの通商交渉すら停滞している中で、マイナス・サムの温暖化交渉で合意することはもっとハードルが高いと思える。
複雑化した気候変動交渉の先行きは?
以上の考えは、温暖化交渉は知っているが、通商交渉経験のない筆者の独断と偏見かもしれない。事実、WTO交渉に長く関与してきた、外務省の尊敬する先輩は、「気候変動交渉の方がましだよ。京都議定書の二分法はもう駄目だという認識が出てきていること自体、まだ妥結のチャンスがある」と言っておられた。
気候変動交渉はAWG-LCA(編集注・京都議定書関連会議「長期的枠組みを議論するワーキンググループ」、AWG-KP(同注・京都議定書締約国のワーキンググループ)が閉じられ、2020年以降の枠組みを2015年に妥結すべく、今年からAWG-DP(ダーバンプラットホームワーキンググループ)で議論が始まる。
いわば、「ダーバンラウンド」が始まるわけだ。ただこれまで気候変動交渉を見てきた目からすれば、「ダーバンラウンド」がドーハラウンド化する可能性は決して低くないと思う。2018年頃のForeign Affairsに、After Durban — Why the Negotiations Are Doomed and What We Should Do About Itという記事が出ることにならなければ良いのだが。